樹木希林を襲ったがん!全身にがんが転移しても樹木希林が元気な訳
2016/08/01
たかあみ
樹木 希林(きき きりん )
本名:内田 啓子(うちだ けいこ)
誕生日:1943年1月15日(72歳)
星座:やぎ座
出身地:東京都
性別:女
血液型:A型
【主な作品】
時間ですよ
寺内貫太郎一家
ムー
ムー一族
影の軍団シリーズ
夢千代日記
はね駒
はみだし刑事情熱系
夢千代日記
命
東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
わが母の記
1961年 文学座に入り、「悠木千帆」名義で女優活動をスタート
1964年 森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得
1970年 時間ですよ (第1期)
1974年 寺内貫太郎一家
1978年 ムー一族
1981年 夢千代日記
1997年 必殺始末人
2003年 半落ち
2006年 東京タワー オカンとボクと、時々、オトン
2010年 ゴースト もういちど抱きしめたい
2015年 海街diary
女優として活動し始めてから半世紀以上を過ごしている樹木希林さんは、若い頃から数々のテレビドラマや映画などに出演してきました。若い頃は老け役ばかりだったそうです。意外ですね。
1977年、ある番組に出演していた若い頃の樹木希林さんは、オークションコーナーで「売る物がない」との理由で自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけたそうです。名前は2万2千円で世田谷の飲食店店主に売却され、自らは「樹木希林」に改名したというから驚きですね!
オークションの後、落札した宮坂さんのところに女優や芸能事務所から「悠木千帆の名を譲ってほしい」という多くの申し出がありましたが、なかなか宮坂さんの納得する女優は現れませんでした。
オークションから30年近くたった2004年になってようやく、ある女優に「悠木千帆」の名が譲られました。『寺内貫太郎一家』が放映された1974年の生まれだそうです。今年のNHK大河ドラマ『功名が辻』に侍女役で出ています。
若い頃の樹木希林さんが「悠木千帆」という名前をオークションで売ったという話は、何となく聞いた事があったのですが、その後「悠木千帆」の名前の行方を知りませんでした。30年も経ってやっと名乗られているのですね。
樹木希林さんのご主人といえば、ロック歌手の内田裕也さんです。
お2人の出会いはというと、1973年、当時、若い頃の樹木希林さんが出演されていて人気ドラマだった
「時間ですよ」の収録スタジオだそうです。
内田裕也さんが、その収録スタジオをのぞいたんたそうです。
それで”意気投合”したのが馴れ初めだという話です。
その後、5ヶ月の交際期間を経てのスピード婚だったそうです。
驚きました。
内田裕也さんは、1939年11月17日生まれで、現在75歳です。
ロック歌手であり、俳優としても活躍されています。
内田裕也さんは、公の場所に出た際には、
ステッキ片手に「ロックンロール」というのが口癖でもあります。
挙式をジーパンで行ったとは驚きました!
若い頃なら出来ますね(笑)
結婚して30年以上も経ちますが、若い頃から別居を続けているそうです。
内田裕也さんというと、数々の驚きエピソード、事件などあります。
樹木希林さんと結婚した当初は、DVは当たり前(毎日)の生活で、暴れだしたら、すぐに警察に来てもらえるよう、登録?までしていたようです。
それでも、『口が不器用なので、手が出てしまうんです。』と言える、樹木希林さんは器が大きいですね。
同居2年で別居婚になり、現在に至ります。
内田裕也さんは、暴れたら手もつけられなくなる程だと言います。
それなのに若い頃から樹木希林さんは、離婚をせずに来ました。
「あんな男を放っておいたらもっと迷惑を掛けるから、自分がいる事で最後の一線を越えさせないようにしているんだ」と、樹木希林さんは言っているそうです。
1981年、(内田裕也氏が)離婚届を区役所に提出してしまっても、樹木希林さんは離婚を認めず、訴訟となり、離婚無効との判決が下ったということです。
樹木希林さんの若い頃からの信念が素晴らしいです。
2005年に乳がんの切除をして、そこから3ヶ所ぐらい皮膚に転移したという樹木希林さんです。
その後、治療して2年ぐらいしたら、また5、6ヶ所転移していたそうです。
医師に何がんかを聞いたら、全身がんと言われたと樹木希林さんは言います。
全身がんってどんながんなのでしょう?
また、死への覚悟を聞かれると「常に思ってる。皆さんは果てしなく生きると思っているでしょ? いまはいつ何があってもおかしくない。畳の上で死ねたら上出来」と達観。今後への思いについては「自分が生きたってことが、他人の迷惑にならないよう、自分が生きていることによって、出すゴミがないよう思ってます」と答えていた。
娘婿でもある俳優の本木雅弘からは「どういうところで死にたいですか?」と質問されたといい、「病院よりはうちのほうがいい。孫の声が聞こえるところで死にたいと伝えた。彼は“おくりびと”ですから」と清々しい表情で紹介。
樹木希林さんがおっしゃった「全身がん」という「がん」は存在しないそうです。不幸にして、体のあちこちにがんが転移してしまった状態のことを樹木希林さんは「全身がん」と表現したらしいです。
若い頃だと、がんも進行が早いので治療に専念するのでしょうね。
いろいろなインタビューを聞いていると、樹木希林さんのがんへの向き合い方が若い頃とは違う、今のご自分に合った形を取っているように思います。
樹木希林さんは、若い頃からかなり年上の役をやっていました。
1974年放送の「寺内貫太郎一家」では、30代とう若い頃にもかかわらずおばあちゃんの役をこなしました。
壁に貼った沢田研二のポスターに向かって・・・
「ジュリ~~~♡」と体をくねらせるポーズは、ウケた(笑)
若い頃の樹木希林さんですが、完全におばあちゃんになりきっています。
樹木希林さんの若い頃「ジュリ~~~♡」
『寺内貫太郎一家』(てらうちかんたろういっか)は、1974年にTBS系列の水曜劇場枠で放送され、平均視聴率31.3%を記録した人気テレビドラマ。昭和の東京下町、石屋を営む一家とそれを取り巻く人々との人情味溢れる毎日を、コメディータッチで描いた。
貫太郎と長男の周平(西城秀樹)との大喧嘩(西城はこのシーンの撮影で実際に腕を骨折して入院)、きん(悠木千帆)婆さんが沢田研二のポスター[1]を見て身悶えしながら「ジュ〜リ〜」と叫ぶシーンなどが話題になった。また、職人のタメとイワが石を削りながら掛け合うシーンも見どころ。
若い頃、このドラマは見てました!(笑)
確か、お母さん役の加藤治子は貫太郎(小林亜星)と周平(西條秀樹)の恒例の乱闘シーンの時の巻き添えに遭い、前歯を折ってしまったというエピソードがあったように思います。
「私は、私が正しいと思うようにやってるの」
「それで間違ってれば謝るわよ」
「だけど、それ以外は知らないわ」という、樹木希林さんの若い頃からの信念、他人に振り回されない強さがカッコいいです!
がんと闘いながらも樹木希林さんは若い頃と変わらず、女優を続けていって欲しいです。
樹木希林さんは、若い頃からマネージャーをつけず、自分1人でスケジュール管理、出演や取材の依頼を受けるなどを全て賄っているそうです。
そして、生きている間、自分のゴミは出さないようにしているとも言っています。
若い頃には、考えられない事かもしれませんね。今だから思えるのかもしれないです。
物を貰わない、増やさない、と日々簡素に過ごしているのが、とても素敵に思えます。
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