樹木希林の娘・内田也哉子が弔辞に隠した意図とは?本木雅弘との近況は?
2020/03/10
TAMAZO
樹木 希林(きき きりん、1943年1月15日 - )
本名、内田 啓子(うちだ けいこ)
旧姓:中谷(なかたに)、岸田。また、旧芸名は悠木 千帆(ゆうき ちほ、初代)。
東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。
誕生日1943年1月15日(72歳)
星座やぎ座
出身地東京都
性別女
血液型A型
あの樹木希林さんからこんなにも弱気な言葉がでてくるなんて、、
がん宣告はやはり相当の精神的ショックですよね。
そして樹木さんは、2004年に乳がんを患います。2013年の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞のスピーチで全身がんを告白し、まわりを驚かせました。がんになってから、夫、内田裕也さんの存在をありがたいと感じるようになったとのことです。
全身がんでも私は幸せ。
樹木希林さんの言葉です。
全身をがんに侵された人の言葉とは思えないですよね!
全身がん。まさしくイコール死。のような窮地に追い込まれた時でさえ、樹木希林さんはこのような言葉を言ってのけます。
樹木希林流ポジティブ。
その秘訣はご両親の育て方にあったんです。
今ふり返ってみるとポイントだったと思うのが、小学校6年生の水泳大会のとき。(中略)私以外は小学校1年生~2年生ぐらいのレースでした。歩き競争が「よーい、ドン」で始まると、小っちゃい子たちがワチャワチャやってるなか、私だけすぐゴール。断トツの一等賞よ、なんせ身体が天と地ほどもちがうんだから(笑)。でもね、表彰式で私ニンマリ笑ったらしいの。私も誇らしかったのを覚えています。これが私の財産なんです。まわりと自分を比べて恥ずかしいだなんて思わない。(中略)これはもう親の教育に尽きますね。親がえらかった。
このような価値観をもてたのは親の教育のおかげ。両親はとにかく「叱らない」親でした。記憶にあるのはいつも「あんたはたいしたもんだよ」と言われていたこと。何を言っても何をやっても両親は笑っていたとのことです。
ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。人がなぜ生まれたかといえば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。(中略)そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく受けとめ方を変える。自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。
樹木希林さんの名言ですね!
がんであることを受けとめることができたのも「人と比べない」価値観が根底にあるから。「なぜ私が」とは思わず「さあ、がんになった。どう生きよう」と思えるのです。小さい頃から自分にフォーカスする習慣がついていれば人と比較することもありません。(北田江美)
治療に関しては、当時の担当医と相談した時、一部だけを切除する温存療法という選択肢もあったものの、樹木希林さんは、手術する先生を気遣ってか、先生のやりやすいほうで、ということで右乳房の全摘手術となった。
その後も体の調子が悪かったものの、次第にがんに対しての考え方が変わって来たのです。
樹木希林さんとおなじ乳がんのチェックシートです!
是非一度チェックしてみてください!
初めのうちは、「がん=死」と捉え、治療に関しても、どこか医者に身を委ねるようなかんじでしたが、次第にがんに対する考えが変わっていくのが、その時々の発言から見て取れます。
がんに対する樹木希林さんのこの言葉。
なかなか言えないですよね!
がんを受け入れるまでには、本人にしか分からない様々な葛藤があると思います。
樹木希林さんのがんに対する素晴らしくポジティブな発言。
がんをここまで肯定的に捉えられる方は樹木希林さん以外なかなかいないのではないでしょうか?
樹木希林さんは当初、がんの手術に関しても、「先生のやりやすいほうで」というようなことで、医者に委ねていた感があります。
しかし、その後、がんに関して、勉強をしだしたといいます。そして知識を深めていくと、がんを自分が治すんだという、心構えに変化していきました。
自分に合う医者や治療法、本などを、本気で探すことが大事。自分を知る勉強だと思います。
自分の体のことですから、少し医者を疑うくらいの気持ちで良い治療法を探すことが大切。良い医者に出会う、というよりもその医者の良い部分をキャッチできるかがカギだと思います。
そして、全身にがんが移転したことを知ったのちに、樹木希林さんが選んだ治療は放射線治療でした。
そうして放射線を照射する場所に関しても、医者任せではなく、樹木希林自身が医者に対して、「ここから、ここまで」と命令したといいます。
がんの治療はとても辛いものだとききます。
勿論本人の精神的な意識も大きく治療の成果に関わってきます。
樹木希林さんの自分ががんを治療するんだ。という明確な意識は治療にとても良い効果をもたらしたのでしょう!
2012年、作家のなかにし礼を突如襲った食道がんは決して初期段階のものではなかった。
2012年3月5日にテレビで告白した食道がんはそれほど深刻のなものだった。
それから約半年、なかにしさんが、がんは完全に消滅しましたと告白した。
治療方法は、放射線治療の一種で、病巣を狙い撃ちして照謝できる先進医療の「陽子線治療」だった。
この手術は切らずに消すので体へのダメージも少ない。
この手術をなかにしさん以前に受けていた女性がいた。
それが樹木希林だ。
2004年の夏に乳がんが発覚し、2005年1月に右乳房の全摘出手術を受けた。
それから2年ほどしてから、同じ場所でがんが再発。
全摘出後も一部残った乳腺にがんが発生したり、関連部位に転位することもあり、この場合も乳がんと呼ばれている。
樹木は、病院を転医。
そして、そこの病院で切らない放射線治療を受けたら、がんが消えたという。
樹木はこの放射線治療を受けた後、全摘出したことを後悔してるのか、こう語っていた。
「あれから何年もたった今考えてみると、やはり切らないでピンポイントの放射線治療が一番良かったと思う」
そして、友達で知り合いで乳がんになっている人がいたら、放射線治療をして、それがだめなら摘出手術をしましょうとアドバイスするのだという。
今では亡くなっているが、実際にジョー山中、筑紫哲也などを紹介したことがあるそうです。
再発したがんを治すまでの話を樹木に聞いた。
「治療は週に何回じゃなくて毎日で・・・。通うことはできないから、1ヶ月くらい滞在したんです」
冒頭でも紹介したように放射線治療の一種である陽子線治療をしたそうです。
この治療は照射なので血液のがんには対応できないそうです。
がんについて。自分の体について。
とてもたくさん勉強をされて出した答えがこの治療法でした。
樹木のがんとの闘いは2004年夏から始まる。
まず乳がんが発覚。
2005年1月には右乳房の全摘出をした。
それから2年後の2007年頃、同じ場所でがんが再発。(転移だった)
しかし、樹木は今度は手術を拒否。
放射線治療を選んだのだ。
そして、乳がんは無事に消えたとも報じられた。
しかし、その後に経緯について2012年9月、全身がんであることを明かす。
「がんができる体質になちゃったの。がんと付き合いたくないけど、出てくるものはしょうがないよね・・・。常にどこかにでてもおかしくないと思っているから、そんなに汗って医者行って調べないの。私の場合、日々の生活の仕方は、がんを受け入れてるという形だから」
60代になって気管支喘息、網膜剥離、そしてがん。
リアルに死というものに向かっていく自分を意識したことから、彼女の終活は始まった。
60代になって気管支喘息、網膜剥離、そしてがん。
リアルに死というものに向かっていく自分を意識したことから、彼女の終活は始まった。
樹木はいずれくる死を受け入れるという考えになっていったそうです。
「樹木さんは死ぬときに、納得がいなかいと思いたくないから、今を大事に生きるようにもなったし、周囲も自分と真剣に向き合ってくれるようになったと嬉しそうに話していることがありました。樹木さんに言わせると、がんはありがたい病気で面白いんだそうです。いろんなよじれが見えてきて、人生が変わる。そういった意味で賜りものなんだって」(親しい映画関係者)
たくさんの事を乗り越え、受け入れ、そしてなお今も戦い続けている樹木希林さん。
一つ一つの言葉が深く重いです。
いつまでも樹木希林にはお元気でいてもらいたいですね!
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