2016/08/05
chihiro
本名 奥村 利夫(おくむら としお)
別名義 二代目杵屋勝丸
生年月日 1931年11月29日
没年月日 1997年6月21日(満65歳没)
出生地 日本の旗 日本・東京市
職業 俳優・歌手・脚本家・映画監督
映画プロデューサー・三味線師範
ジャンル 映画・テレビドラマ
配偶者 中村玉緒
日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。
市川雷蔵とともに大映の「二枚看板」として活躍。
その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。
勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、不祥事が起こっても多くのファンから愛された。
1990年1月16日、ハワイのホノルル空港で、下着の中にマリファナを隠し持っていたという容疑で勝さんは、現行犯逮捕されてしまいました。
そして、急遽、ハワイで記者会見が開かれることに。
そこで勝さんは、「なぜ、パンツの中に入っていたかわからない。今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」とコメントしたのです。
いやいや、そういうことじゃ・・・って感じですよねw
それから1年半してようやく帰国となった勝新太郎さんはそこでも伝説に残る発言が。
帰国後、大麻事件で、刑事たちから取調べを受けた時には、「(大麻を)誰かにもらったんだろ!」という刑事に対して、「そういうことにしてもいいけど、そうなると、トップシーンはいいけど、ラストはおかしくなるよ!」と受け答え。
勝さんは、警察の取調べという場においても、自分を映画の主人公に見立てて、ストーリーを考えているような人だったのです。
なんだか役者として尊敬していいのか悪いのか・・・というような勝新太郎さんの伝説でしたねw
『座頭市』がヒットした翌年の昭和38年、市川雷蔵さんのギャラが1本あたり300万円だったのに対し、勝さんのギャラは1本250万円でした。
なんとかあと50万円アップして、雷蔵さんと並びたいと思った勝さんは、ある日、永田社長に対し、5本指を突き出して、「これだけ上げてもらいたい」と言ったそうです。
ギャラの交渉が出来るのも伝説の男となる勝新太郎さんほどの役者さんだからこそでしょうね。
最初、難色を示した永田氏ですが、後日、持ち込まれた契約書を見て、勝さんは目を疑ったといいます。
なんと、そこに500万円と書かれていたからです。
50万円のアップを頼んだつもりが、500万円に勘違いされていたことに勝さんは内心では驚きながらも、「ここで驚いたらまずい」と、必死で平静を装っていたそうです。
この勘違いをした永田氏もある意味伝説を生み出しましたねw
この額に平静を装っていられる勝新太郎さんの精神にも驚きです。
ある時、時代劇のリハーサル中に、台本どおりに芝居をしていたほかの役者に、勝さんは「ちょっと待った。そのセリフはまだだ」とダメ出しをしました。
その理由がわからなかった役者が、「でも台本にはそう書いてますが…」と言ったところ、勝さんは、「そんなもんに頼るな。台本なんて食べちゃいなさい!」と豪快に言い放ったのです。
そう言われた共演者たちは、台本を食べるしかなかったそうです。
勝新太郎さんの言葉に本当に台本を食べてしまうとは・・・。
勝さんが主催していた映画セミナー『勝アカデミー』の生徒だった小堺一機さんが、勝さんに連れられて、高級料亭に食事に行ったときのこと。
最高級の牛肉を一口食べた次の瞬間、勝さんはそれを“ペッ!”と吐き出しました。
「いつからこんな物を出すようになったんだ。お前のとこは…」。
そのひとことに場は凍りつき、「少々、お待ちを」と板前さんが慌ててその場を去りました。
それを見た勝さんは、「今の顔、見たか?本当に慌てた人間の顔ってのは、ああいう顔なんだ。よく覚えとけ!」と、涼しい顔で話したそうです。
そんなことを勝新太郎さんに言われたらお店の方でもビックリしてしまいますよね。
以前から黒澤明監督の作品に出演したいという気持ちがあった勝新太郎さん。
ついに映画の出演オファーが!!
しかし、ここでまたもや伝説を作ってしまった勝新太郎さんでした・・・。
勝さんは役作りの参考にするため、自分の演技を撮影しようと、現場にビデオカメラを持ち込んだのですが、これが黒澤監督のカンに触り、撮影を止めるようにと注意を受けます。
これを聞いた勝さんは、そのまま撮影所を出て行ってしまいました。
翌日、黒澤監督は記者会見を開き、一方的に勝さんの降板を発表。
その時、監督は沈痛な面持ちでこう言いました。
「監督が2人いたのでは、映画は撮れない」と。
後日、勝さんは、『勝アカデミー』の授業で、黒澤映画を降板した本当の理由を、「例え世界の黒澤だろうと、こっちは天下の武田信玄だ。武田信玄が謝るはずがない」と話したそうです。
そこまでしなくても・・・という伝説も勝新太郎さんにはありました。
ある日、後輩の役者、黒沢年雄さんを乗せ、ドライブに出かけたときのこと。
運転していた勝さんは、何を思ったのか買ったばかりのリンカーンを電柱にぶつけたのです。
そして、言いました。
「どうだ、驚いただろう!」と。
なんと、黒沢さんを驚かすためだけに、買ったばかりの高級車をスクラップにしてしまったのです。
これには勝新太郎さんの車に乗っていた黒沢年雄さんも相当ビックリしたでしょうね(^^;)
寿命が縮まってしまいそうな勝新太郎さんのドッキリ伝説でしたw
仕事では豪傑ながら、惚れた女性に対してはシャイな面がある勝さんは、プロポーズさえもマネージャーに頼むほどだったのです。
「本人の口からではなく、マネジャーから『結婚してください』と言われたんです。とにかくシャイな人でした」と、玉緒さんも当時を振り返ります。
周囲からは破天荒な伝説だらけの勝新太郎さんとの結婚を反対されてしまったという中村玉緒さんですが、本人の強い希望によってめでたくゴールイン!
そして新婚旅行で箱根へ行ったそうですが、その時にもちょっと笑える伝説が。
しかし、新婚初夜、勝さんは玉緒さんとふたりきりになると、どうも落ちつかない様子で「玉緒、ちょっと来い」と、玉緒さんを呼び、『チンチロ』というゲームを教え始めたのです。
新婚初夜だというのに、勝さんと玉緒さんは一晩中、サイコロを振っていたそうです。
黒澤映画での突然の降板、勝プロ倒産、毎日飲み歩き朝帰り…。
勝さんと結婚してからの玉緒さんは、夫が迷惑をかけた人々に対し頭を下げて回る毎日で、苦労の連続でした。
麻薬事件の時も、懲りない勝さんに代わり、心から謝罪の意を述べたのは、玉緒さんでした。
ここまで破天荒で豪快な伝説を作り出してしまう勝新太郎さんを妻の中村玉緒さんはなぜ支え続けることができたのでしょう。
本来ならば困った伝説ばかりの勝新太郎さんとの離婚を考えてもおかしくはないのではないでしょうか?
ある日、玉緒さんが風邪をひいて寝込んでいると、勝さんから突然、電話が。
「ちょっとある人に代わるよ」という電話口で電話を代わった相手は、なんと、渡哲也さんでした。
玉緒さんが驚くと、次に電話口から聞こえてきたのは、玉緒さんが大好きだった渡さんのヒット曲、『くちなしの花』でした。
勝さんは、渡さんを夜通し探し回って何とか捕まえると、風邪をひいた玉緒さんのために電話口で歌ってくれるようにと頼み込んだのです。
不器用な勝新太郎さんの時折見せるこのような愛情が中村玉緒さんを引きつけていたのでしょう。
とても微笑ましい伝説も勝新太郎さんは生み出していたのですね。
舞台『夫婦善哉・京男京女』で勝新太郎さんと妻の中村玉緒さんは結婚してから初となる共演となりました。
地方巡業をしている時には緊急入院となってしまう勝新太郎さん。
その際に精密検査を受け、医師から「下咽頭がん」という告知を一人で受けたそうです。
ガンを患いながらも、常に周囲へのサービス精神を忘れなかった勝さん。
死の直前にも、記者の質問を受け、タバコを吸いながら「タバコはね、止めた」と言ったり、「お酒はね、ビールが美味いんだよねぇ」と言ってみたりと、まるで病気を恐れていないような口ぶりで話していたといいます。
それから僅か10ヵ月後の1997年6月21日、勝新太郎さんは、「下咽頭ガン」のためなくなります。享年65でした。
生前、勝さんは、妻・玉緒さんに対し、こんな言葉を残しています。
「中村玉緒は勝新太郎なしでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒なしでは存在し得なかった」
それは、玉緒さんにとって勝さんから初めて送られた、何ものにも代えがたい最高の贈り物でした。
勝新太郎さんは最後までたくさんの伝説を生み出してくれました。
これからもこの伝説が語り継がれていくことでしょう。
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