2023/12/15
take79
中島忠幸さんは、高校は1年生の時に中退しています。
喫煙がバレたことにより、2度の停学になっています。2度目の停学の際に、家族に内緒で退学届を提出したのだそうです。なかなかやんちゃだったことが、伺えます。
高校中退後は、就職せずに、当時アイドルとして人気だった田村英里子さんの親衛隊に入って、熱心に活動していたようで、九州支部長にまで上り詰めていたそうです。
高校中退後、しばらくは無職だった中島忠幸さんですが、18歳の時に地元・福岡の料亭で板前修業を開始します。
しかし、先輩からイジメに遭っていたそうです。1年ほど経った頃、先輩を殴り倒して料亭を辞め、上京しています。
カンニングと言えば、カンニング竹山さんがキレて、中島忠幸さんがなだめるといった芸風だったこともあり、中島忠幸さんは穏やかな人という印象を持っていた人も多かったようですが、実は中島忠幸さんの方が破天荒な性格をしていたようです。
上京した中島忠幸さんは、友人宅に居候し、総菜屋でバイトをしていました。そして、同じ小学校、中学校に通っていた、幼馴染みであった竹山隆範さんと偶然にも定食屋で再会します。
竹山隆範さんは、高校卒業祖、浪人をしており、予備校へ通っていました。そして、浪人中に小学校の同級生である田中健二さんとコンビ『ター坊ケン坊』を結成し、TNCのオーディション番組『第1回激辛!? お笑いめんたい子』で優勝して、5月から福岡吉本第1期生として所属契約を結ぶも、1年で福岡吉本を辞め、上京していました。
中島忠幸さんと竹山隆範さんは再会後、頻繁に遊ぶようになり、1年経った頃に竹山隆範さんにコンビ結成を持ち掛けられ、カンニングを結成しました。
結成後、渡辺プロダクションに所属しましたが、一向に売れずにクビになっています。
その後、中島忠幸さんが田村英里子さんの親衛隊に所属していた縁で、サンミュージックに所属する事となりますが、お笑い班が無くなり、またしてもクビになります。
個人事務所所属となったカンニングでしたが、仕事も無く、中島忠幸さんはバイクで事故を起こしたことをきっかけに借金をすることとなりました。
27歳の頃には300万ほど借金を抱えていたと言います。
仕事も無く、借金だけが増えていく中、お笑いコンビのブッチャーブラザーズの口利きで再びサンミュージックに所属する事となりました。
しかし、売れる兆しは全くなく、再びクビになりそうになりますが、ブッチャーブラザーズのリッキーからキレ芸をやってみることを提案されます。
キレ芸はカンニングの代名詞ですが、きっかけは先輩芸人からのアドバイスだったのです。
そして、お笑いの大会で優勝するなど実績を残し始め、2002年頃よりテレビに出演するようになり、竹山隆範の突き抜けているキレ芸が注目されることとなり、カンニングはブレイクしました。
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35歳という若さで亡くなったカンニング・中島忠幸さんですが、死因はなんだったのでしょうか。
急性リンパ性白血病を患い、治療を続けていた中島忠幸さんでしたが、ウイルス性肺炎を併発したことで2006年12月20日に35歳で亡くなりました。
中島忠幸さんは、カンニングでブレイクし、仕事も順調になり、2004年4月に結婚しました。
そして、11月頃に、急性リンパ性白血病が発覚し、12月から休業し、2005年1月に急性リンパ性白血病の治療中であると公表していました。
急性リンパ性白血病とは、白血球の一種であるリンパ球になる前の細胞に異常が起こり、がん化した細胞(白血病細胞)が骨髄で無制限に増える病気です。
同時期に元アイドルで、歌手やミュージカル女優として活躍していた、本田美奈子さんも罹患しており、手紙を通じて励まし合っていたのだそうです。
しかし、本田美奈子さんは、2005年11月に亡くなりました。38歳でした。
中島忠幸さんは、2006年2月頃に臍帯血移植手術を受け、経過は順調だと伝えられていましたが、2006年5月か6月頃に再発します。
そして、2度目の臍帯血移植手術を受け、寛解状態にまで回復しました。しかし、2006年11月頃に再発し入院し、ウイルス性肺炎を併発し2006年12月20日に35歳で亡くなりました。
中島忠幸さんの葬儀・告別式は、東京都中野区にある宝仙寺で2006年12月24日に行われました。仕事関係者やファンなど、900人が参列しました。
カニング竹山さんが弔辞を読みましたが、中島忠幸さんに対する思いが込められた内容で、
と、2人の関係性が良く伝わる弔辞で、話題になりました。
続いては、中島忠幸さんの嫁や子供について、今はどうされているのか見ていこうと思います。
中島忠幸さんは、20004年4月に結婚をしており、妻の名前は真奈美さんといいます。
名前は分かっているのですが、一般人の方だったようですので、妻のそれ以外の詳細や現在については不明です。
2004年9月に長男の翔太さんが誕生しています。2022年9月で18歳となっています。翔太さんが2歳の時に中島忠幸さんが亡くなっています。
続いては、カンンング竹山さんが、中島忠幸さんの家族を支えていたという話について詳しくご紹介していきたいと思います。
カンニング竹山さんが中島忠幸さん亡きあとに、自身のギャラや給料を折半し、中島忠幸さんの家族を支えていると一部で報道されたことがありました。
しかし、ギャラの折半をしているという報道について、カンニング竹山さんは「脱税で捕まるからやらない」と言い、いろいろなところで、否定しています。
ただ、カンニング竹山さんは中島忠幸さんが闘病中は、ピンで出演していたギャラを折半していたことは事実であると見られています。
中島忠幸さんをずっと支えてきたとみられるカンニング竹山さんは、2019年のお正月休みには、中島忠幸さんの息子と共にハワイに旅行へ出かけています。
木梨憲武さんがラジオで明かして分かった事ですが、中島忠幸さんが亡くなって13年経ってなお、中島忠幸さんの家族を気にかけているこの話には多くのリスナーが、称賛の声をあげました。
続いては、中島忠幸さんの闘病記についてご紹介します。
中島忠幸さんの1周忌には、闘病生活をつづった『家族のたからもの~夫・カンニング中島が遺した最期の日記~』が出版されています。
著者は妻の中島真奈美さんです。内容は、中島忠幸さんの2年にわたる闘病中に綴った日記をまとめたもので、2007年12月1日に発売になりました。
カンニング竹山さんの相方であり、35歳の若さでこの世を去った中島忠幸さんについてご紹介してきました。
中島忠幸さんは、売れない時代を過ごし、ようやくブレイクをつかんだ直後に、急性リンパ性白血病を患い、ウイルス性肺炎を併発したことで2006年12月20日に35歳で亡くなりました。
中島忠幸さんが闘病中、そして亡くなった後も、カンニング竹山さんは家族をサポートし続けており、カンニングのコンビのきずなの深さがとてもよく分かります。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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