【動画あり】菅原文太と高倉健、映画に生きた2人を予告編で振り返る
2016/08/10
lazeengine
高倉 健(たかくら けん)
本名:小田 剛一 (おだ ごういち)
生年月日:1931年2月16日
没年月日: 2014年11月10日(満83歳没)
出生地:福岡県中間市
死没地:東京都
身長:180 cm
血液型:B型
日本を代表する映画スターで、半世紀以上にわたり活躍してきた。代表作は映画『日本侠客伝シリーズ』、『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『新幹線大爆破』、『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』、『野性の証明』、『南極物語』、『ブラック・レイン』、『鉄道員(ぽっぽや)』、『あなたへ』など。2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。
菅原 文太(すがわら ぶんた)
本名:菅原 文太
生年月日:1933年8月16日
没年月日:2014年11月28日(満81歳没)
出生地:宮城県仙台市
死没地:日本・東京都
身長:178cm
血液型:O型
代表作は映画『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズ。どちらも日本映画史に残る配給収入を上げた。父は洋画家、詩人の狭間二郎(元新聞記者)。妻は菅原のマネージャーを務めており、長男は菅原加織。他に娘が2人いる。
同世代の高倉健さんと菅原文太さん。昭和を代表する映画スターとして活躍。いくつかの作品を一緒に出演した後に、それぞれの個性を活かした分野の作品に出演し、お互いを意識しつつもそれぞれの道で活躍していました。映画史に残る高倉健さんと菅原文太さんの活躍は、高倉健さんと菅原文太さんが亡き後もずっと語り継がれていくことでしょう。
東映やくざ映画のリアルさは、鶴田、高倉、菅原の3人が、暴力団幹部に映画ではしきたりや所作(立入振る舞い)を学び、歌謡ショーやキャバレー出演といった興行では、彼らの仕切りで動き、ある意味で一体感を持っていたからだ。従って、3人と親密につきあった暴力団幹部も同年代。70代、80代が中心で物故者も少なくない。
高倉、菅原と相次いで亡くなってから、私は、『週刊ポスト』で「高倉健・菅原文太と暴力団」を執筆することになり、3人とつきあいがあった暴力団関係者を訪ね歩いた。
彼らは、やくざ映画が盛りで、映画俳優たちと飲み歩いていた頃、20代、30代の遊び盛りだった。その頃のエピソードは、実に豊富で記憶は鮮明。なにより、「いい時代だった」と、皆が等しく振り返った。
高倉健さんと菅原文太さんが任侠映画に出演し話題となった一番の理由は、やはりそのリアルさだったのかもしれません。本当の暴力団、極道の世界を知るために高倉健さんと菅原文太さんは、本物の暴力団の幹部に、立ちふるまいなどを教えてもらうなど、あえて交流を持っていたようです。今では考えられませんが、この高倉健さんと菅原文太さんの行動が、今の任侠映画の基礎となっていると言えます。
文太と健さんとの本格的な共演は、実質的には「山口組三代目」(昭和48年8月、山下耕作監督)、「大脱獄」(昭和50年4月、石井輝男監督)、「神戸国際ギャング」(昭和50年10月、田中登監督)の3本。
東映サイドも、文太を任侠路線に代わる実録路線のエースと位置づけ、健さんとの新たな二枚看板として売り出す予定だったのだろう。東映が満を持して放つ2大スター競演の超大作との触れこみで、ポスターやタイトルバックも、かつての片岡千恵蔵と市川右太衛門、鶴田と高倉のような扱いになっていた。
文太の場合、「神戸国際ギャング」のときには、その2カ月前に封切られた主演作品「トラック野郎」が大ヒット、新境地を開拓し、ますますスターとしてハクを付けていた。
高倉健さんと菅原文太さんが活躍していた昭和の懐かしい映画。二人のカッコよさに女性以上に男性が楽しみにしていた時代でもありました。もう高倉健さんと菅原文太さんの実際の姿を見ることはできませんが、映画の中の高倉健さんと菅原文太さんにはいつでも会うことができます。
「神戸国際ギャング」に出演、自分の息子に「健太」と名付けるほど健さんと文太兄ィのファンで、憧れの2人と初めて共演したボクシングの元世界チャンピオンのガッツ石松は、撮影中の文太兄ィが健さんに対し、一歩も二歩も下がって立てている感がありありと見受けられた──と証言している。
撮影中の事故で、健さんがケガを負ってしまったときのこと。それでも監督やスタッフが、健さんの絡まない別の撮影を続けようとしたところ、文太が憤然と、
「健さんがケガしたのに、撮影なんかできるわけないだろう!」
と撮影をやめさせたという話も、ガッツは伝えている。
ガッツ石松さんも、高倉健さんや菅原文太さんに負けないほどのキャラクターぶりを発揮していますが、それでも高倉健さんと菅原文太さんの魅力に魅了された人のひとりのようです。
司会者が健さんに、
「菅原文太という俳優をどう見てますか」
と問うたのに、健さんは、
「東映を背負って立つようなすばらしい俳優さんになられましたね」
といった内容のことを言葉少なに語ったのを、はっきり記憶している。
文太はそれを健さんから離れた場所(壇上でとなりあわせに並んだのではなかった)で、照れくさそうに聞いていたのが印象的だった。
タイプの違う高倉健さんと菅原文太さん。だからこそ二人は何かと話題に取り上げられたのかもしれませんね。
どちらかというと健さん同様、寡黙な男として知られる文太。思うに、このときの文太は図らずも高倉健に対するライバル意識というか、気負いのようなものが出てしまったのではないかという気がしてならない。
文太が健さんに対して強烈なライバル意識を持っていたと見る映画関係者は少なくない。筆者も後年、文太にインタビューしたとき、役者として鶴田、高倉とは違う方向で──ということは意識されたのか、との問いに、文太から、
「同じことをやってもかなわないとなれば、誰でもそう考えて努力するのではないのかな」
と返ってきたものだった。
高倉健さんと菅原文太さん。菅原文太さんが高倉健さんにライバル心を抱いていたということがわかりますが、高倉健さんはどうだったのでしょうか。
高倉さんが硬派なキャラクターを形成して「幸福の黄色いハンカチ」「あなたへ」などの路線に行ったのに対して、菅原さんは「トラック野郎シリーズ」などコミカル路線へと進んだ
我慢に我慢を重ね、最後に怒りを爆発させる高倉さんに対し、狂犬のようにむき出しの怒りをぶちまけた菅原さん。ともに時代が求める男の美学を体現した硬骨の役者だった
2014年11月10日、高倉健。11月28日、菅原文太。日本人のカリスマ的な大俳優が立て続けにこの世を去った。両雄の悲報は、昭和期に映画を娯楽としていた世代に大きな衝撃と落胆を与えた。
菅原さんは、最近は福岡市内に住んでいたといい、死去後、きのう11月30日に、すでに太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の祖霊殿で家族葬が執り行われたという
出典
最期は福岡で、「菅原文太さん」逝く||NETIB-NEWS(ネットアイビーニュース)
妻の菅原文子さんは「恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます」とコメントしています
昭和を代表する偉大なふたりがこの世を去り、何とも言えませんが、本当に色々な因果の中生き抜いていった高倉健さんと菅原文太さんの不思議な縁に最期まで魅了させてもらった気分です。
お二人のご冥福をお祈りします。
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