【ミスタープロ野球】長嶋茂雄のポジティブな名言・格言・珍言集
2016/08/12
dametora
長嶋茂雄
生年月日:1936年2月20日
出身:千葉県佐倉市
身長:178cm
学歴: 立教大学
子供:長嶋 一茂、長島 三奈、 長島 正興
愛称:ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球
元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督。
現役の頃は、巨人の4番打者として活躍。「ON砲」として並び称された王貞治とともに国民的人気を誇った。
1958年、読売ジャイアンツに入団。
1974年、現役引退。
同年11月、巨人の第9代監督に就任。
1度、退任したものの、1992年には監督復帰を果たす。
2001年、株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督。
2004年、脳こうそくで倒れ、命は取り留めたものの麻痺が残り、以降リハビリを続けている。
2013年、国民栄誉賞受賞。
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ミスターが高校3年生の時。佐倉一高入学時には160センチしかなかった身長が、3年生になるまでにとどんどん背が伸びて180センチ近くまでになった。ある日ミスターは保健室を訪ね、不安げな表情で「まさか、俺、背の伸びる病気じゃ…」と相談。それを聞いた保健の先生は、真面目に悩んでいるミスターに「おめえ、百万人に一人の馬鹿だっぺ」と呆れ果てた。
立教大学時代。英語の先生が「“I live in Tokyo.”の過去形は?」と質問した時、ミスターは大マジメにこう答えた。 「“I live in Edo(江戸)”」
野球部の同僚とテスト勉強をしている際、同僚が使っている英和辞典を見せてもらい、「これは便利な本だね、なんていう本、どこで売ってるの?」と聞く。
ソウルオリンピックでリポーターを務めていたミスター。100メートル背泳ぎ決勝で1着になった鈴木大地が、薬物検査のため控え室に戻る時、ミスターが「大地!おめでとう!」と言って抱き着こうとした。薬物検査の前に他人が体に触れると失格になる事を知らなかったミスターは、大慌ての係員に必死で制止された。その時長嶋は「君たち何をするんだ!大地とは友達なんだ!」と叫んだ。
解説者時代、ミスターがビートたけしをゴルフに誘った。ミスターからの誘いとあって、たけしは仕事をキャンセルしてまでミスターとのゴルフのためにスケジュールを空けた。そして約束の当日、たけしがゴルフ場に到着すると、ミスターは先に来ていて練習していた。たけしが声をかけると、ミスターは「おや、たけしさんも今日、ゴルフですか?」と言った。自分が誘った事をすっかり忘れていたのだ。
息子の一茂が小学2年生の時、ミスターは一茂を後楽園球場に連れて行った。そして帰りは自分ひとりで帰ってきたのだ。父親が自分の息子を球場に置き忘れてきたのだった。
試合前練習を終え、風呂&シャワー
→浴びながら、その日の試合をイメージ
→本人の脳内では本日の試合終了・・・・
→試合用ユニフォームではなく、私服に着替えそのまま帰宅しようとした
・試合前「靴下がない!」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ、「ごめん、あった」片方の足に二枚履いていた。
・試合後「車の鍵がない」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ、「ごめん。今日は、新聞社の方の車に乗せてきてもらったんだ」
・試合後「車の鍵がない」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ、「ごめん。今日は、電車で来たんだ」
・試合後「メガネがない」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ、王さんのウインドブレーカーの中から出てくる。実は試合前に王さんのウインドブレーカーを着ていた。
長島茂雄さんの「忘れた!」エピソードが多数!
これほど、多くの伝説が語られてる人はなかなかいません。
正直なところ、周囲の人々はフォローが大変ですね。
ただ間違いなく言えることは長嶋茂雄さんという天才にはまったく悪気がなく、そしてどんな迷惑をかけられたとしても誰もが(家族以外は…?)許してしまうということですね。
長嶋茂雄伝説、まだまだ続きます!
初めての海外キャンプ(ベロビーチ)に行った時。アメリカの子供たちが英語を喋っているのを耳にしたミスターは、「こっちの子は英語がうまいなあ」と感動。また、アメリカで走っている車を見て「うわー外車多いな。こっちは外車ばかりじゃないか!さすがはアメリカだ」
長嶋茂雄 語録集
スランプなんて気の迷い。
ふだんやるべきことを精一杯やって、
土台さえしっかりしていれば、
スランプなんてありえない。
ぼくはいつも、
「オレは絶対打てる」
という気持ちでボックスに立っていますよ。
なにか一つのことに
脇目も振らずに打ち込める時期を持てる人は
幸せかもしれない。
今の若い人達は
のめりこめるものを見失っている。
不幸な時代だとは思うけども、
時代のせいにするのはどうかな。
伝説の男、長嶋茂雄さんの言葉には破壊力があります。
時には皆を驚かせ、時には笑いを提供し、そして大事な時には心に響く一言をくれるのです。
だからこそ、誰もが長嶋茂雄さんに魅了され、長嶋茂雄さんは伝説の存在として愛され続けるのでしょう。
1958年4月、対国鉄スワローズ戦に、3番サードでデビュー。国鉄のエース金田正一投手に4打席連続三振を喫したが、そのすべてが渾身のフルスイングであったことが伝説的に語り継がれている。
長嶋は、チャンスに強いバッターであるがゆえの敬遠も多かった。血気盛んな長嶋は、それに対して奇想天外な抗議を見せている。
1968年5月11日の中日戦、2死2塁で敬遠してきた山中巽投手に対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出たのだ。球場内はどよめいた。しかし、絶対打つことができない長嶋を、あろうことか山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせたのである。
1959年6月25日の対阪神戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合(昭和天皇が観戦)。長嶋が劇的なサヨナラ・ホームランを放ち、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡る。
それまで大学野球が人気で、プロ野球は軽んじられることもあったが、この試合からプロ野球の隆盛は始まったともいわれている。
なお、この試合では新人の王貞治もホームランを打っている。これは長嶋の引退試合も含め、106回あったONアベック・ホームランの第1号である。
長嶋は敬遠球が大嫌いでした。
◆敬遠球をホームラン
1960年開幕戦 巨人×国鉄
◆敬遠球をランニングホームラン
1960年07月17日 巨人×大洋
長嶋は記憶に残るだけの選手ではなかった。現役時代は首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、最多安打10回と多くのタイトルを獲得している。
巨人の監督としても抜群の成績を残している。日本一2回、リーグ優勝5回とチームを常勝軍団に導いている。
2015年5月5日、東京ドームで行われた国民栄誉賞授与式で、ともに受賞した愛弟子の松井秀喜さん(38才)とおそろいのスタイルでグラウンドに立った長嶋さん。
2004年3月4日、自宅で倒れた長嶋茂雄さん(77才)。脳梗塞の中でも後遺症が大きいとされる心原性脳塞栓症だった。当時、主治医は家族に「寝たきりも覚悟してください」と告げたという。
「長嶋さんは『最初はね、泣きたくなるほどつらく、痛かった。半端なもんじゃなかった。でも、リハビリはマストでしょ? だから続けたの』と話していました。そしてそれを越えて、『今ではスポーツ感覚で楽しんでいるよ』とも付け加えたんです」(深澤氏)
本格的なリハビリに入ってからのメニューは、週に4日、1日2時間を予定していたそうなんですが、長嶋さんはその3~4倍にあたる毎日午前と午後に2時間ずつのメニューを続けていたと聞きました。
退院後も毎朝45分の散歩と、マシンや鉄アレイを使った40分から1時間のトレーニングを欠かさない。9年間で休んだのは、大雪の日と風邪で体調を崩した時のたった2回だけ。「これはリハビリじゃない、筋トレなんだ」と番記者に力強く正していたという。
スタッフたちは、つらそうな顔や、愚痴を一切こぼさない長嶋氏の姿に、感動すら覚えたという。
番組は、長嶋氏が、
「リハビリはウソをつかない」
と自分に言い聞かせながら、現役時代同様に闘志を燃やして後遺症と闘ってきたことを伝えた。
2004年、生きる伝説ミスタージャイアンツ長嶋茂雄さんが脳梗塞という病に倒れたというニュースは日本中に大きな衝撃を与えました。
その衝撃は、伝説の男長嶋茂雄さんも病に倒れる普通の人間だったのだ、というある意味、当たり前の事実に気づかされたような感覚でした。
私達日本国民は「長嶋茂雄」というスーパースターは普通の人間とは違う次元にいると錯覚していたのかもしれません。
恐らく、長嶋茂雄さんも当たり前の人間として悩んだり苦しんだりストレスを抱えたりすることもあったでしょう。
実は家族不和であった、病に倒れたのは愛人宅であった、などという噂などもあります。
しかし、そんなマイナスイメージの長嶋茂雄像を日本国民は望んでいません。だからこそマスコミでもあまり取り上げられることはないようです。
そして、日本国民が望む偶像化された「伝説の男長嶋茂雄」像を、誰よりも理解して守ろうとしていたのが、他の誰でもない長嶋茂雄さん本人だったのではないでしょうか。
強くて明るくて前向きで、おちゃめで朗らかで天然…。
それが「伝説の男長嶋茂雄」なのです。
病に倒れてもなお、長嶋茂雄さんはそんな「伝説の男長嶋茂雄」像を守り続けるべく、過酷なリハビリに耐え努力を続けているのかもしれません。
いつか、ミスタージャイアンツ長嶋茂雄が、伝説の野球人としてグラウンドに立つ雄姿を見たいものですね!
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