2023/12/22
k_nanamru
小林麻美は、少女雑誌のモデルとしてスカウトされました。テレビCMなどで活躍したあと、アイドル歌手としてもデビューします。しかし歌手としてはヒット曲にはあまり恵まれません。
最大のヒット曲「雨音はショパンの調べ」に巡り会ったのは1984年になってからです。結婚を機に、芸能界を引退したのが1991年の事です。
モデルとして歌手として、1970年代から活躍していた小林麻美。小林麻美は結婚を機に、芸能界から引退していました。しかし25年ぶりに、雑誌モデルとして芸能界に復帰しました。
小林麻美は、25年ぶりに雑誌も出るとして芸能界に復帰しました。デビュー当時はスレンダー体型で、長い髪で影のある表情は「都会的でファッショナブル」と言われていたのです。
そんな小林麻美がファッション誌「Kunel」の表紙を飾り、モデルとして復帰を果たしたのです。しかし復帰したのは良いのですが、以前の姿と較べ劣化していると言われています。
それでは小林麻美がどれほど、デビュー当時と違うのか較べてみましょう。上にある画像は、若い頃の小林麻美です。ファッション雑誌の表紙は、復帰した小林麻美です。
若い頃と較べると、年をとっているので残念だという声は分かります。しかし現在の年齢と、お子さんが居るのを考えると素適だと言う声もあるのです。
小林麻美の現在の年齢は、還暦を過ぎた65歳と言うことです。さすがに肌のハリや艶などは、若い頃と較べたら衰えが見えるかもしれません。しかし65歳という年齢を考えると、スレンダーの体型を維持し、オシャレだという声も頷けます。
小林麻美のデビュー当時はイブ・サンローランが好きで、影のある表情と長い黒髪は都会的でオシャレだと言われていました。
復帰をした現在も年は重ねているのですが、落ち着いた大人の女性でとてもオシャレだと言う声もあるのです。
モデルや歌手として芸能界でかつやくしていた小林麻美。デビュー当時に所属していた事務所をから、田辺エージェンシーへと移籍しています。
1991年に所属事務所の社長と結婚したのです。小林麻美の結婚相手は、一体どんな人物なのでしょうか。
小林麻美の結婚相手は、田邊昭知と言う人物です。堺正章らと共に、GSのスパイダースで活動していました。所属していたホリプロから独立し、田辺エージョンシーを設立。所属タレントには、研ナオコはタモリ・堺雅人らを擁しています。
小林麻美はその田辺エージェンシーへの移籍が、知り合ったきっかけとなったのです。
田辺エージェンシーの社長田辺昭知は、芸能界のドンと言われています。ホリプロと言えば、芸能事務所で最初に株式公開をした事務所としても有名です。渡辺プロダクションと双璧と言われる事務所なのです。
そのホリプロから独立して会社を起こし、研ナオコやタモリなどを世に出したことでそう言われるようになったのです。
小林麻美が結婚した年齢は37歳でした。一方夫の田邊昭知は52歳でした。2人の年齢差は15歳あり、年の差婚だったのですね。しかも小林麻美がお付き合いを始めたのは20歳の頃で、結婚するまで17年もの月日が経っていたのです。
事務所の社長と年の差婚をした小林麻美。しかもお付き合いをしていることは、誰にも知られていませんでした。小林麻美と田辺昭知の間には子供がいるのでしょうか。
これから小林麻美と田辺昭知の子供について調べてみましょう。
1991年に、小林麻美と田辺昭知は結婚を発表しています。結婚までの期間は、15年もの間隠し続けていたのです。そして2人の間には、結婚を発表する前に生まれていました。
つまり小林麻美は、田辺昭知とデキ婚だったのです。出産のことは、会社の副社長も知らなかったようです。極秘のうちに出産していたのです。
1991年1月9日に、小林麻美の子供は生まれています。そのお子さんの名前は、小林泰三さんと言うことです。現在は27歳になっているのではないでしょうか。お子さんは幼い頃には、虫歯が多く神経質に歯医者通いをしていたのです。
一人息子の泰三さんは、大手広告会社の電通に勤務しているようです。その事は、小林麻美の姉が話しています。田辺エージェンシーの田邊昭知社長も高齢ですので、息子さんに跡を継がせることも考えられますね。
しかし今はまだ電通に勤務しており、結婚もしていると叔母は話しています。
所属事務所の社長と、年の差婚をした小林麻美。小林麻美が芸能界に入ったのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。
これから芸能界に入ったきっかけや、生い立ちについて見ていきたいと思います。
小林麻美は1953年11月29日に、東京都大田区で生まれています。父親は国鉄などの信号機を設計する技術者で、母親は美容師をしていました。小林麻美が15歳の時に、骨髄炎から急性肝炎を併発し、1年間の入院療養をしています。
モデルとしてデビューしたのは高校1年の時です。モデル雑誌にスカウトされたのがきっかけで、モデルとして仕事をするようになったのです。1970年にライオンのCMに起用さ、CM撮影をスキー場で行いました。
その撮影中に、小林麻美は複雑骨折をし長期休養を余儀なくされました。小林麻美が所属していた事務所は、この長期休養のため1カ月後に倒産したのです。
1982年18歳の時に、小林麻美は東芝レコードから歌手としてデビューします。同期には麻丘めぐみや五十嵐じゅんがいました。デビュー曲の「初恋のメロディー」はオリコン18位を記録したのです。
当時のアイドルに求められていたのは、明るくて無邪気に笑う天真爛漫でした。しかし小林麻美はほとんど笑顔を見せることなくうつむき加減で歌うので、アイドルに向いていないと判断され長続きはしなかったのです。
歌手としてデビューした小林麻美の最大のヒット曲は、どのようにして生まれたのでしょうか。そのヒット曲が生まれるきっかけとは、一体何だったのでしょうか。
小林麻美が注目を浴びるきっかけとなったのは、資生堂のCMやパルコのCMでした。特に1977年のパルコのCMコンセプトが「淫靡と退廃」でした。その頃の小林麻美のスレンダーな体型と、寡黙で影のある表情がピッタリとマッチしたのです。
1984年、小林麻美は歌手として復活します。本人が希望して復活したかは分かりませんが、8年ぶりに曲を出したのです。イタリアの男性シンガーが歌った曲「I Like Chopin」のカバーでした。
松任谷由実が日本語の詞を担当しています。その詞とメロディーと小林麻美のイメージが一致し、最大のヒット曲となったのです。
最大のヒット曲「雨音はショパンの調べ」があったにもかかわらず暗いイメージのためか、小林麻美はテレビでその歌を歌うことはありませんでした。
あるラジオ番組で小林麻美は「私は歌番組を一度も断ったことないですよ」と話しています。「本当はテレビで歌いたかったのに」と本心を語っているのです。
小林麻美のデビュー曲や、最大のヒット曲は一体どんな歌なのでしょうか。YouTubeでその動画を探してみたいと思います。
小林麻美のデビュー曲、初恋のメロディーです。作詞は橋本淳、作曲はヒットメーカーの筒美京平でした。儚くも失恋をする歌詞となっています。
この歌詞と小林麻美の陰のある表情が、より一層失恋の悲しさを際立たせていますね。
「 雨音はショパンの調べ 」原曲は I Like Chopin。 日本での歌は小林麻美がアンニュイさを帯びた大人な女性の雰囲気で歌っています。1984年4月21日発売されており、日本語歌詞は小林とは旧友でもあった松任谷由実が担当しています。
小林麻美は一時期、夫の田邊昭知と離婚の危機があったようです。その離婚の危機と言われるようになったのは、一体何があったのでしょうか。
結婚当初は仲むつましく生活をしていたようです。しかし子供が小学校に通うようになったときから、夫はほとんど家に帰って来なかったそうです。それで夫婦の時間が、すれ違うようになったのでしょう。
夫の仕事が忙しくなり、お互いすれ違う生活を送っていたのが離婚の危機だと噂されたようです。
田辺エージェンシーに、フリーアナウンサーの夏目三久を迎え入れる事になりました。その夏目三久を田辺昭知は、寵愛したと言われています。その事で妻の小林麻美が、不倫を疑ったのではないでしょうか。
田辺昭知も病気などを発症し、今では完全に別居状態だと言うことです。
「雨音はショパンの調べ」のヒット曲で活躍した、小林麻美。現在はファッション雑誌のモデルとして、活動をしているようです。復活したときは、時の流れを感じ劣化がひどいという噂もありました。
しかし母親でも有り妻でもある小林麻美は、還暦を過ぎた女性とは思えない輝きを放っています。今後もモデルとして活躍されることを願っております。
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「雨音はショパンの調べ」のヒット曲で知られる小林麻美。モデルとして雑誌やテレビCMでも活躍していました。アイドル歌手としても活動していたのですが、結婚を機に芸能界から引退します。
しかし、小林麻美がモデルとして復帰したという噂があるのです。今回は小林麻美の復帰と、劣化しているという噂について調べて見たいと思います。