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2023/11/27
r.y6
10代のカリスマとして時代を駆け抜け、26歳の若さで亡くなった伝説的な歌手、尾崎豊。彼はどのような人生を歩んだのでしょうか。また死因は何だったのでしょうか。尾崎豊の経歴や死に至る状況などについてご紹介します。
尾崎豊は1965年11月29日、陸上自衛官であった父の下、2人兄弟の次男として生まれました。東京の練馬区で育ちます。
尾崎豊は小学5年生のときに東京都練馬区から埼玉県朝霞市に引っ越しました。朝霞市の小学校には馴染めなかったようで、学校に行かないようになります。そんななか出会ったのが音楽で、兄が持っていたクラシック・ギターを手に取るようなりました。
尾崎は井上陽水の詩の世界に大きく影響を受け、井上陽水のほか、さだまさしやイルカの曲を弾き語りしました。
中学校は尾崎豊の希望で練馬区の学校へ通いました。生徒会副会長や文化祭委員長を務めるなどリーダーシップを発揮しましたが、喫煙により停学処分を下されたこともありました。
高校受験の際は、慶應義塾志木高等学校、青山学院高等部、陸上自衛隊少年工科学校の3校を受験しています。第一志望の慶應義塾志木高等学校は不合格でしたが、残り2校には合格しました。
陸上自衛隊少年工科学校の受験は父親の影響が考えられますが、髪を短くする必要があるため、尾崎は青山学院高等部を選びました。彼の性格からしても陸上自衛隊少年工科学校は合わなかったことでしょう。高校に進学した尾崎は、様々な問題を起こすこととなります。
尾崎豊は高校に進学すると、喫煙やバイク事故で停学処分を受けています。そして3年生のときに、飲酒や乱闘騒ぎによって無期限停学となりました。
音楽で生きていくことを決意した尾崎は、ソニー主催のオーディションとビクター主催のオーディションを受け、前者に合格しました。1983年12月にファーストシングル「15の夜」、ファーストアルバム「十七歳の地図」を同時にリリースしてデビューしました。
翌1984年尾崎豊は新宿のルイードで初ライブを開催しました。多くの関係者が詰めかけるなか、尾崎は最初は緊張していましたが、次第に落ち着いてパフォーマンスを行いました。次第に尾崎は10代からカリスマ的な人気を得るようになっていきます。1985年のセカンドアルバム「回帰線」はオリコン週間1位を獲得しました。
1986年1月、進むべき方向性を見失っていた尾崎豊は無期限活動休止を宣言し、自分探しのためにニューヨークに渡るようになります。当初はニューヨークと日本を行ったり来たりしていましたが、同年6月より長期滞在し、12月に帰国しました。さしたる収穫はなかったと言われています。
1987年2月には心機一転し、所属事務所が起ち上げたレーベルであるMOTHER&CHILDRENに移籍しました。新曲の発表がないまま、同年7月にはライブツアーが始まりましたが、9月に疲労から倒れ、ツアーは中止となってしまいました。尾崎豊は精神的に落ち込んでいたものとみられます。
1988年1月尾崎豊が覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたことが報道されました。報道によると、警察は尾崎が自宅で覚せい剤を使用しているという父親からの通報で、家宅捜索し、覚せい剤を見つけ、逮捕しました。覚せい剤はトイレの貯水タンクに隠していたとみられます。
取調べに対し、尾崎は昨年夏ごろから数回、覚せい剤をコーヒーや水に溶かして飲んでいた、新宿歌舞伎町の喫茶店に売人を呼び出して、一袋二万円で買ったと供述しています。
同年2月東京地裁で初公判が開かれ、尾崎は起訴内容を認めました。検察は懲役1年6か月を求刑し、結審しました。裁判官は尾崎が反省していることを認め、懲役1年6か月、執行猶予3年を言い渡しています。判決公判の一般傍聴券30枚を求めて、ファンら961人が行列を作りました。
創作活動のスランプから覚せい剤に手を出して逮捕・執行猶予判決を受けた尾崎豊は、判決から4か月後の1988年6月、新曲「太陽の欠片」をリリースし、復帰しました。
同年9月には東京ドームで復帰後初のライブを開催しています。それまでカリスマとして祀り上げられ、それに応えようとしてきた尾崎ですが、同ライブでは尾崎とファン双方に余裕が生まれるようになったと評されています。
1992年4月25日、尾崎豊は自宅マンション近くの民家の軒先に全裸で倒れていたところを発見され、病院に担ぎ込まれました。全身傷だらけで、目にはあざがありました。しかし、医者に診てもらって一度、自宅に戻りました。しかし容態が急変して呼吸が止まり、病院に運ばれましたが、亡くなりました。
尾崎豊の遺体は当初、事件性がないため行政解剖が行われる予定でしたが、全身が傷だらけであったことから司法解剖に切り替えられました。解剖の結果、死因は肺水腫であることがわかりました。肺水腫は肺に水分がしみ出して呼吸困難に陥るものです。
尾崎豊が倒れていたところを病院に担ぎ込まれた際、医師は命の危険に関わるため、専門医の診察を受けるよう勧めましたが、妻の尾崎繁美は自宅に連れて帰りました。前年に尾崎豊と斉藤由貴の不倫もあり、離婚の危機があったために妻による他殺説も出ました。
テレビ朝日は妻と知人による他殺説を主張する番組を制作したため、尾崎繁美はテレビ朝日とジャーナリストを訴え、勝訴しました。
尾崎豊は遺書を残していました。2011年に『文藝春秋』がその遺書を公表しています。果して彼の死は自殺だったのでしょうか。
一つ目の遺書は破ったB5のルーズリーフに書かれ、亡くなる3年くらい前に自殺を図った際に書かれたものとみられています。死ぬ理由については明確に述べられておらず、詩のような文章となっています。
「若かった頃のあなたの声があなたのぬくもりが甦ってきます」という一文がありますが、「あなた」とは誰を指しているのでしょうか。
二つ目の遺書は、尾崎豊の死後一ケ月経って自宅から発見されたといいます。妻の繁美、息子の裕哉を賛美して、捧げるものとなっており、遺書らしい内容ではありませんでした。
ただし血判と血で「愛しています」と書かれていました。尾崎豊の父親と兄は、この遺書を書いて自殺したことには疑問があると述べています。
尾崎豊の死をめぐっては、不可解な点が多いため、様々な説が出されました。薬物入りの酒を飲まして、集団リンチを加えたという証言も出ています。
しかし検死を担当した解剖医によると、大量の覚醒剤服用による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫とされています。全身の傷は他者の暴行によって生じたものではなく、転んで暴れ回るなどの覚醒剤中毒による異常行動によるものとみられます。
尾崎豊は18枚のシングル、6枚のオリジナルアルバムをリリースしています。以下では、彼の代表曲をご紹介します。
「15の夜」は1983年12月にリリースされた尾崎豊のデビューシングルです。尾崎が14歳のとき、教師に髪をバリカンで刈られた友人とともに家出したことをもとに作られた歌です。語呂が悪いため、「15の夜」とされました。
「盗んだバイクで走りだす」というサビが印象的で、大人や学校からの自由を歌い、10代の心を捕えて離しませんでした。1993年4月にはアコースティック・ギター1本で演奏したライブバージョンが13枚目のシングルとして発売されました。
「卒業」は1985年1月にリリースされた尾崎豊の4枚目のシングルです。「夜の校舎 窓ガラス 壊してまわった」という歌詞が強烈で、尾崎の不良的なイメージを印象付けました。実際にこの曲に影響されて、窓ガラスを割る若者も出てきて、尾崎は危機感を持つようになります。
「I LOVE YOU」は1991年3月に11枚目のシングルとしてリリースされました。もともと1983年リリースのファーストアルバム「十七歳の地図」に収録されていたもので、改めてシングルカットされました。同アルバム制作時、プロデューサーにバラード曲を要求されて即興的に生み出されたと言われています。
尾崎を代表する人気の一曲であり、国内外の数多くのアーティストによってカバーされています。世界で愛されているスタンダード・ナンバーと言っても過言ではないかもしれません。
「OH MY LITTLE GIRL」は1994年1月にリリースされた13枚目のシングルです。もともと「十七歳の地図」に収録されていました。月9ドラマ「この世の果て」の主題歌として使われており、その効果もあって初のオリコンヒットチャート1位を獲得したシングルとなりました。
売り上げ枚数もミリオンを達成し、皮肉にも尾崎の死後にして、最大のヒットシングルとなっています。
尾崎豊には息子が一人いました。2歳のときに父を亡くした尾崎裕哉は、その後、どのような経緯を経て歌手となったのでしょうか。
尾崎裕哉は1989年7月4日、尾崎豊の長男として生まれました。2歳のとき、父親を亡くし、その後、母親ととともにアメリカに渡り、15歳までアメリカで過ごしました。高校は東京のアメリカンスクール・イン・ジャパンに進学しました。その後、慶応義塾大学を卒業、同大学院を修了しています。
尾崎裕哉は2004年に尾崎豊のトリビュート・アルバム「"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI」に参加し、「15の夜」を歌いました。しかもそれは尾崎豊のプロデューサーであった須藤晃の息子Tomi Yoとのユニットでの参加でした。
2016年9月4日にはTBS系の「音楽の日」に出演し、「I LOVE YOU」のカバーと両親に向けて書いたオリジナル曲「始まりの街」を披露し、父親を彷彿とさせる歌声が話題となりました。その翌日に「始まりの街」でメジャーデビューしています。
以上、尾崎豊の経歴や死に至る状況などについてご紹介してきました。尾崎豊はカリスマ的人気を博して、時代を駆け抜け、26歳の若さで亡くなりました。自分の手に余る以上に人気となり、人気に翻弄されてしまった歌手だったのかもしれません。
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