2024/02/16
r.y6
70年代にテレビや映画で大人気だった女優「大信田礼子」。容姿もスタイルも抜群の彼女は、どのような人生を送ってきたのでしょうか?そして、彼女は現在、何をしているのでしょうか?
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1970年代に女優として活躍していた大信田玲子の現在年齢は?出身地や家族構成など、彼女の大まかな経歴をを見ましょう。
大信田礼子が芸能界に入るきっかけとなったのが、1966年にアメリカで開催された「ミスコンテスト 10代女王コンテスト 世界大会」です。大信田礼子は、このコンテストで見事優勝し、10代ミスコン女王の座を手にしました。
このミスコン優勝がきっかけとなり、彼女は同じ年にNHKのドラマ「太郎」でデビューしました。彼女の若い頃の写真を見ると、とても魅力的でハツラツとしていながら、女性らしさも備えていることがわかりますね。その上、スタイルが抜群でしたので、アメリカの10代ミスコンでの優勝も納得がいきます。
芸能人の中では、時々学生時代に同級生だったという偶然な話がありますが、大信田礼子も、学生時代に沢田研二と同級生でした。日本の歌手の大御所である沢田研二とは、小中高が一緒で、幼馴染だったようです。
将来ビッグスターになる2人が、偶然にも昔同級生だったのは、とても不思議な話です。彼らの同級生にとっては、将来のスター2人と学業を共にしたことになります。
大信田玲子は、70年代にブレイクした当時は、映画やテレビなど多くの作品に出演していました。こちらでは、彼女の代表作を見ていきましょう。
『旅がらすくれないお仙』~(昭和のテレビ)あの頃、あの人、あのシーン~ (松山容子・大信田礼子)
「旅がらすくれないお仙」は、まだテレビがモノクロだった1968年10月~1969年9月まで、約1年間、現在のテレビ朝日で放送されていた時代劇です。大信田礼子が演じたのは、女スリのかみなりお銀。
女渡世人のお仙との女2人の珍道中は全52話で、大信田玲子扮するお銀は、いつも短めの着物を着ていて、場面によっては着物を脱ぐこともあったようです。スタイルがとても良い大信田礼子のそんな場面も、男性視聴者はとても楽しみにしていたようです。
「渚の白い家」は、1978年4月に公開された大信田礼子が出演した映画です。この映画は、男女の三角関係から生まれるサスペンスで、大信田礼子は妻を殺害する夫の愛人として主演しています。
妻役は、浅岡ルリ子と当時の人気女優との共演も果たします。デビューからは10年近くたってからの作品ですが、サスペンス映画で愛人役という難しい役も見事にこなしています。
「同棲時代」は1973年に公開された映画で、1970年の頭に上村一夫が出した漫画で大人気となり、映画化されたものです。この作品は、沢田研二主演でテレビドラマ化もされています。大信田礼子は映画にも出演していますが、映画の主題歌「同棲時代」も歌っています。
内容は、同じデザインスクールを出た男女が同棲生活を始め、のちに女性が妊娠するという映画のタイトル通りの、男女の同棲生活から見える葛藤や気持ちの変化を表した作品です。「同棲生活」は、1つのブームになったほど人気がでました。
俺的理想のキャストで「プレイガール」OP
「プレイガール」は、1969年4月から1976年3月までの長期間テレビで放送されたテレビ映画で、アクションドラマでセクシーな場面が多いドラマでした。ミニスカートから見えるパンチラなど、その時代には大胆な演出をしていたようです。
大信田礼子は、52話~85話まで出演していました。アクションドラマということで、彼女は、合気道や空手が得意な女性を演じていました。
大信田礼子は、身長も高くスタイルが抜群。モデル並みの容姿からアクション映画にも引っ張りだこでした。
大信田礼子は、アメリカの10代ミスコンで優勝したほどの容姿・スタイル共に抜群の女優でした。彼女の身長は170センチ近くあるのではと言われていますが、高校生になるまでは、背が高いほうではなかったようです。
彼女は高校時代に、何と8センチも背が伸びたと言われています。そのお陰で、のちに多くのアクションドラマや映画に出演します。はっきりとした顔立ちや身長から、存在感のある女優という印象がついたようです。
「ずべ公番長 はまぐれ数え唄」(公開年月日 1971年03月09日) 予告篇
大信田礼子は、「ずべ公番長」という1970年に公開された映画シリーズの、全シリーズに出演しました。大信田礼子は、リカという名前の暴力団を相手に戦う女性の役を演じています。この作品は、まさに彼女の代表作と言えます。
ショーツやミニスカート、ノーブラなど露出の高い演出でしたが、彼女は、そのスタイルを活かして、堂々と演技をしているシリーズ作品です。
大信田礼子は、女優として成功していました。しかし、実は歌手としても活動していました。彼女は、歌手としても成功したのでしょうか?
同棲時代:大信田礼子2017
大信田礼子の歌手としての代表作は、やはり「同棲時代」です。彼女自身が出演した映画の主題歌を、彼女が歌いました。この歌は作品と共に大ヒットとなります。この曲を作曲したのは、後に彼女の夫となる都倉俊一でした。
彼女のデビュー曲は「女の学校」。また同じレコードに「あなたの女」という曲も収録されていましたが、彼女の歌手としての人気のきっかけになったのは、やはり「同棲時代」でした。
映画やテレビに引っ張りだこの大信田礼子でしたが、多忙時代の70年代には歌手としても成功しています。1970年~1973年の間にシングル7枚とアルバム4枚をリリースしています。
多忙な時期に歌手としても活動していたのは、素晴らしいですね。女優としてだけでも十分に成功していたのに、歌手活動もしたのは彼女が歌が好きだったからではないでしょうか。
女優として、そして歌手として1970年代に成功していた大信田礼子。スタイルも抜群で美人な彼女ですので、恋の噂もあったはずです。気になる彼女の男性遍歴を見ていきましょう。
大信田礼子は、結婚前に一度デート姿をスクープされています。お相手は、まだ無名の仮面ライダー俳優だったそうです。彼らが歩行者天国を歩いているところを、写真を撮られてしまったようです。
スクープされてしまったのは、人気があった証拠ですね。この写真が出た時に、彼女がどのような説明をしたかは明らかになっていません。
大信田礼子は、ヒットした「同棲時代」の作曲家の都倉俊一と1974年に結婚します。2人は仕事を通して出会ったようです。その当時、都倉はとてもプレイボーイだったようです。彼の手帳には、女性の電話番号がすらりと並んでいたという話があります。
都倉俊一は、大信田礼子にプロポーズしたものの、彼女は彼の手帳を見てプロポーズを一度断ります。すると、都倉は彼女の目の前で、その手帳を燃やしたというエピソードがあります。その潔い姿を見て、彼女もついに結婚を決意したようです。
一度は断ったプロポーズを承諾して、大信田礼子は幸せをつかんだはずです。しかし、都倉俊一との結婚生活は長く続きませんでした。彼らの離婚理由の真実は、一体何だったのでしょうか?
都倉俊一は、日本での有名な作曲家で、学習院大学在学中に作曲活動を始めます。70年代には山口百恵やピンクレディーの曲も作曲。数々のヒット曲を出しました。
都倉は大信田礼子と結婚する前に、女性に大変もてていたようです。彼はプレイボーイとして知られていました。都倉は、遊びたかったため結婚を渋っていたという噂があります。
しかし、大信田礼子にプロポーズしたのは都倉。結婚を渋っていたというのは単なる噂のようです。女性にはもてていた彼も、最終的には大信田礼子を妻に選びました。
大信田礼子は、プレイボーイだった都倉俊一と1974年に結婚しましたが、わずか4年後の1978年に2人は離婚をします。2人は、離婚の理由を明確にすることはありませんでしたが、原因は都倉にあったと噂がたっています。
噂は、都倉俊一はマザコンだったため、その行動や言動に大信田礼子が耐えられなくなり、離婚に至ったというものです。また、嫁姑関係も良くなかったのではないかと言われています。
これは、単なる噂であり真実はわかりません。しかし、2人の間には修復しきれない問題があって、離婚に至ったことに違いはありません。
たった4年で結婚生活を終えた、大信田礼子と作曲家の都倉俊一。2人の間に子供はいたのでしょうか?また、都倉俊一は離婚後、どのような人生を送っているのでしょうか?
2人の間に子供はいませんでした。大信田礼子も女優であり歌手であったため、子供を作ることを考える前に結婚生活が終わってしまったのかもしれません。
子供は夫婦を結びつけるとよくいいますね。しかし、2人には子供がいなかったため、2人の間の問題や溝が埋まらないとわかってから、すんなり離婚に至ったのかもしれません。
都倉俊一は、大信田礼子と同じく現在70歳。現在は、ロサンゼルスで生活をしています。1983年に生活拠点をロサンゼルスに移した、ということですので離婚後5年で新たな人生を別の場所で始めたことになります。
ロスで仕事をしながらも、日本音楽著作権協会理事も2016年まで務めていました。最近だと、2017年に紅白歌合戦で故・平尾の後を引き継いで指揮をしています。ロスを拠点に生活をしていますが、日本でも時々彼の活動を見ることができます。
大信田礼子は、若い頃に都倉俊一と離婚をしましたが、その後は再婚をしたのでしょうか?新たな人生を楽しんで生きているのでしょうか?
彼女は、現在70歳で一人暮らしをしています。大信田礼子は、都倉俊一と離婚後、再婚はしませんでした。男性も女性も、結婚が人生の全てではありません。独身でも人生を多いに楽しんでいる人は、沢山います。
大信田礼子も、離婚はしたものの彼女なりに、素敵な人生を歩んできたのではないでしょうか。そう願いたいですね。
大信田礼子は、2014年にテレビ番組「爆報ザフライデー」に出演しています。当時65歳の彼女は、フクロウが大好きでフクロウカフェに通っていることを明かしました。
フクロウが好きとは、なんだか可愛いですね!一人暮らをしながら、趣味を広げて楽しんで生活をしている様子が伝わってきますね。
70年代に大活躍した女優・歌手の大信田礼子。モデル並みの体形や、気が強そうだけれどセクシーな顔立ちは、彼女の人気の理由の1つでした。彼女は現在、まだ女優として活動しているのでしょうか?
大信田礼子は、離婚後も2009年までは主にテレビで女優として活動していました。しかし、その後はテレビから離れ、なんと18年後にカムバックすることになります。
彼女のカムバック作品は、2013年の「相棒season12」の第9話でした。かなり久しぶりのテレビ出演となりました。大信田礼子の昔からのファンは、彼女の元気な姿を見られて、とても喜んだことでしょう。
2009年のテレビドラマ「警察の血」出演以来、あまり目立った活動をしていなかった大信田礼子。その空白の間に何をしていたのかはわかりません。しかし、2013年の相棒season12の出演から、少しずつ女優として復帰していると言われています。
現在彼女は70歳ですので、自分の体調も見ながらマイペースに女優として仕事をしているのかもしれません。もう、ガツガツと仕事をしなくてもいい年齢ですので、心身ともに余裕があればというスタンスかもしれませんね。
大信田礼子は、女優としての経験は長く、ベテラン女優の1人です。彼女は、最近テレビに復帰しましたが、何と現在は舞台でも熱演しているようです。
大信田礼子は、2014年に公演された舞台「生きる」に出演しました。何と彼女は主演!この舞台は、介護にまつわる話で実話を元に作られているようです。
大信田礼子も、介護経験があり自分の介護経験を活かして舞台に臨んだと言われています。やはり、女優としていまだ活動していたのですね。さすがです!
現在70歳の大信田礼子は、今も舞台を中心に女優として活動しています。2019年春にも、明治座で「水森かおり特別公演」の舞台にでています。70歳で現役とはすばらしいですね。
このように、大信田礼子は現在、テレビではなく舞台を中心に活動しているようです。いつまでも元気な姿を私たちに見せて欲しいですね。
70年代を中心に、大人気を誇った女優・歌手の大信田礼子。作曲家の都倉俊一との結婚生活は、たった4年しか続きませんでした。その後、彼女は現在まで再婚はしていません。一度はテレビから姿を消してしまいましたが、現在は舞台を中心にいまだに女優として活動しています。ベテラン女優の姿をいつまでも舞台で見られるといいですね!
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