2023/12/15
take79
吉本新喜劇の座長を23歳という若さで務めたり、間寛平さんとコンビを組み、人気芸人として活躍していた木村進さん。ある時病魔に倒れ、後遺症が残ったため吉本を退社することとなりました。
今回は木村進さんの現在の様子について調べてみました。死亡説の噂の真相にも迫ります。
若くして吉本新喜劇の座長に抜擢されたり、間寛平さんとのコンビで人気芸人として活躍していた木村進さんですが、時代が進み令和にもなった現在では、あまり馴染みのない方も多いかもしれません。
そこで、木村進さんとは一体どんな芸人さんなのか、プロフィールを調べてみました。
23歳にして吉本新喜劇の座長にもなり、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍の場を広げていた木村進さん。公演中、故郷である福岡の地で脳内出血に見舞われ、なんとか一命は取り留めましたが、左半身に重い障害が残り、歩行が困難な状態となります。
予期せぬ形で病に見舞われた木村進さんでしたが、その後なんばグランド花月で行われた、間寛平さんの芸能生活30周年記念公演でゲスト出演を果たします。この時木村さんは電動車椅子に乗られての出演だったそうです。
ご病気のため新喜劇、そして吉本興業を退社された木村進さん。一時は笑福亭鶴瓶さん、よゐこさん、ますだおかださんなどが所属されている松竹芸能への移籍も噂されていたようですが、それも自然に立ち消えとなったようです。
その後、病魔に襲われたご自身の体験から、木村さんは障害者施設への慰問活動を目的とした「木村進劇団」を設立します。
半身不随になり、ご自身を取り巻く環境が目まぐるしく変化していく中で、木村さんは一時自殺を考えられたこともあったようです。
それでも自殺を踏みとどめられたのは、木村さんにお笑いへの強い愛情があったからなのかもしれません。のちほどご紹介する「間寛平」さんとの友情も、大いに関係していたことでしょう。
そんな木村進さんのお笑いへの愛情を示しているのが、「木村進劇団」による障害者施設への慰問活動です。
木村さんは施設への慰問活動を通して、施設の方々、そしてご自身に対してもエールを贈られているのかもしれません。
木村進さんは、大阪市の天神橋筋商店街や大阪府内に、100円ショップの先駆けとも呼べる「木村進の店 多売来屋(たばこや)」という店を経営していました。
今でこそダイソーやセリアなど、人々の生活に欠かせない存在となってきている100円ショップですが、木村さんがお店を出された当時は、まだまだその存在が世間に浸透していない時代でした。
その後、1990年代後半になると木村さんは経営から手を引き、別の会社が経営を引き継ぎましたが、今では大阪の100円ショップの発祥の店と言われているそうです。
まだまだその存在が世間に浸透していなかった当時、100円ショップに目を付けた木村さんの先見性は、これから先、訪れるであろう未来を見通していたのかもしれません。
そんな木村進さんですが、世間ではある噂がまことしやかにささやかれています。2010年に起きた交通事故により、木村さんは亡くなってしまったのではないかとする説が浮上したのです。
この噂が広まったきっかけは2010年の11月、東京都足立区の「木村進」という男性が、バイクでひき逃げされ死亡してしまうという事件から起こりました。
にわかには信じがたい偶然ですが、被害者の男性が偶然にも、お笑い芸人の木村進さんと同姓同名だったために、この噂が流れてしまったのではないかと推測されています。
木村進さんの死亡説がささやれるようになったもう一つの理由は、演芸作家の檀上茂さんのご発言です。
檀上茂さんといえば、長年にわたり吉本新喜劇の台本を手掛けられてきた演芸作家さんで、「花の駐在さん」や「あっちこっち丁稚」など、テレビ用のコメディも数多く執筆されています。
そんな檀上茂さんですが、かつて喜劇俳優の花紀京さんの死去に際し、「木村進ちゃんも先に逝きよったけど、ぼくは亡くなったことは認めたくない」とご発言されていたというのです。
このご発言にどのような意図が隠されていたのかは不明ですが、前述の交通事故の噂とあいまって、木村進さんの死亡説がより強くささやかれるようになったようです。
木村進さんの祖父は「初代博多淡海」父は「二代目博多淡海」母は「博多淡子」を名乗り、お笑い芸人をされていました。妹は「博多和美」娘の木村優さんも芸人をされているなど、まさにお笑い芸人の家系と言えるでしょう。
祖父の「初代博多淡海」は、福岡の伝統喜劇の「博多にわか」の素人役者からプロ役者に転向したことが始まりだったそうです。
その後、木村進さんの父である「二代目博多淡海」が23歳の若さで跡を継ぐと、松竹芸能に所属され、藤山寛美さんとの共演などでたちまち人気芸人となりました。
木村進さんは高校中退後、16歳で父の劇団「淡海劇団」に入門し、父と同じ松竹芸能所属の「博多小淡海」を名乗ることとなります。
こうして、晴れて父と同じ松竹芸能に所属することとなった木村進さんですが、親の七光りという周囲からの視線と、父からの厳しい芸の指導といった重圧に耐えられなくなり、19歳の時に松竹芸能のライバル会社である吉本興業へ、父の了解を得ることなく転籍することとなります。
親子の間での微妙なすれ違いにより、しばらくの間は木村さんと父の関係は絶縁状態が続きます。
それからしばらくが経ったある日のこと、なんと新喜劇の劇終了後に「二代目博多淡海」が舞台に上がり、「木村進をよろしくお願いします」と、観客の皆さんに向かって深々と土下座をされたそうです。
はた目にはすれ違ったように見えても、親子は心の深いところで繋がっていたのでしょう。
元々がお笑い芸人の家系ということもあり、幼い頃から芸事の修行を積み、素質があった木村さんは、吉本興業に移籍してからの下積み生活をわずかな期間で終わらせました。
そして、若干23歳の若さで、木村さんは吉本新喜劇の座長に大抜擢されるのです。
その木村進座長の新喜劇で名物となったのが、木村さんの盟友であり良きライバルでもある「間寛平」さんとの名コンビでした。
お笑い芸人の家系に生まれ、持っていた芸人としての元々の素質、幼い頃からの芸事の修行、そして間寛平さんという素晴らしい相方を得て、木村さんの人気には一気に火が点き、たちまち休みを見つけることのほうが難しい人気芸人となります。
1970年代中盤から1980年代前半にかけての時代は、木村進さんの人気絶頂期でした。関西の番組では木村さんを見ない日のほうが珍しく、新喜劇の仕事と並行してバラエティー番組にもどんどん進出していったのです。
その仕事量は凄まじく、多いときには月に60本の仕事をこなすなど、高まる人気に比例するように増え続けていくスケジュールとの、過酷な闘いでした。
前述の通り、木村進さんは若干23歳の若さで吉本新喜劇の座長に就任されました。吉本新喜劇の座長さんというと、今でいうと小籔千豊さんや、女性初の座長に就任された酒井藍さんなどが有名ですが、木村さんは小籔さんや酒井さんの大先輩にあたるということですね。
座長を務められるだけの人気と実力を兼ね備えていなければ、けして座長という責任の重いポジションを任されることはないでしょうから、それを若干23歳という若さで任されることとなった、木村さんの実力と凄まじい人気ぶりが伺えます。
そんな人気の絶頂にあった木村進さんですが、1985年以降は活動の拠点であった吉本新喜劇自体がマンネリ化を辿っていき、お客さんの反応も徐々に薄れていくようになります。
舞台のマンネリ化と闘い、日々試行錯誤する中で、吉本側からの要請もあり、木村さんは父の跡を継ぐために1987年に「三代目博多淡海」を襲名しました。
そして1988年に、全国巡回での襲名披露公演を大々的に行うこととなったのです。
しかし、木村さんは最終公演地である故郷福岡の地で、脳内出血に倒れ重体となります。元来のお酒好きと、休みなしに仕事をしすぎたことが原因ではないかと言われているそうです。
その後、命こそ取り留めた木村さんですが、左半身が不随となり、歩行が困難な状態となります。
左半身に重い障害を負った木村さんは、人気絶頂の時代から数年後、吉本新喜劇、そして吉本興業を退社することとなるのです。
公私ともにかけがえのない存在と言われる、木村進さんと間寛平さん。ここでは、そんなお二人の関係性について調べてみました。
吉本新喜劇では間寛平さんとコンビを組んでブレイクした木村進さんですが、オカマの役やおばあさんの役など、どんな役も器用にこなし、座員の中でも指折りの芸達者として知られていました。
同じく喜劇俳優である帯谷孝史さんは、2015年の吉本新喜劇座員紹介インタビューで、「あの人の芸が半分でもいいからほしかった」と語られています。
このように、元々が芸達者だった木村さんだったからこそ、間寛平さんとコンビを組むことによって、相乗効果の大きな笑いが生まれていたのでしょう。
病気のため、一時期表舞台から姿を消していた木村進さんですが、1999年10月10日、なんばグランド花月で行われた間寛平さんの芸能生活30周年記念公演で、奇跡のゲスト出演を果たします。
かつて名コンビとして客席を爆笑の渦に包み込んでいた二人が、紆余曲折の人生の長い時を経て、再び舞台の上で再会したのです。
それまでずっと表舞台から姿を消していた木村さんが出演を決意されたのは、盟友であり良きライバルでもあった、他ならぬ間寛平さんの記念公演だったからでしょう。
間寛平さんは現在も木村さんのリハビリ費用のためにカンパを集めるなど、公私ともに木村さんを支えられているそうです。
波乱万丈の人生を歩まれてきた木村進さんですが、ご家族はいらっしゃるのでしょうか。ご家族のこれまでについて調べてみました。
木村進さんの奥様は、日活ポルノ女優として活躍されていた風間舞子さんで、現在もドラマや舞台など多方面で活躍されています。
風間さんは長崎県出身の大阪育ちということで、同じ九州の福岡県出身である木村さんとは、様々な面で惹かれあうものがあったのかもしれません。
人気絶頂期にご結婚されたお二人でしたが、木村さんが病魔に襲われ吉本興業から退社することが決まった時には、夫婦の仲もうまく行かない日々が続いていたようです。
それから程なくして、木村さんと風間さんの間には正式に離婚が成立しました。その後木村さんは再婚されましたが、現在は離婚され独身ということです。
木村進さんと風間舞子さんの娘の「木村優」さんは、一時は子役として吉本新喜劇に出演されていました。
その後、木村優さんは2006年4月に結婚され、9月に元気な男の子を出産されています。木村進さんにとっては初孫の男の子でした。
かつて吉本新喜劇のスターとして、観衆を沸かせた木村進さん。ここでは木村さんの代表的なギャグについてご紹介します。
木村進さんの代表的なギャグに、「イーッヒッヒッヒッヒ」という独特の笑い声があります。主に相手をドッキリで驚かせる時や、相手を威嚇する時に用いられるギャグで、そのにやけた顔と独特の響きのとりこになってしまうお客さんも多かったようです。
木村進さんが間寛平さんとのコンビで、おばあさん役を演じる時のギャグに、「おや、こんなところに水たまりが」というギャグがあります。足元に何も水たまりなど無い状態にも関わらず、水たまりを飛び越える仕草をするというものです。
似たようなおばあさん役のネタで言えば、志村けんさんの「ひとみばあさん」のようなイメージのネタと言えるかもしれませんね。
これも同じくおばあさん役のネタで、「聞いてください、婦人会の皆さん」というギャグがあります。そこで起こっている事件の会話のやり取りに突然入り込んできて、その事件の内容によく似ている身の上話を語りますが、実はまったく関係のない話だったというものです。
例としては、犯人役や悪役が糾弾されている時に「この子をお許しください」などと身の上話を始め、そこで話を聞いた関係者が「あなたはこの人のお母さんですね?」と尋ねると、「いえ、赤の他人です」とオチをつけます。
こちらもおばあさん役のネタで、「ええやないか、久しぶりやねん!」というギャグです。おばあさん役にも関わらず、娘役の役者さんにまるで男性のような絡み方をするのが特徴のネタです。
木村進さんの代表的なネタの一つに、「許ーるさんっ!」というギャグがあります。ネタ中の登場人物にコケにされたり、嫌なことをされた時に、声を押し殺すようにして吐くギャグです。
以上、吉本新喜劇の伝説的存在である、木村進さんの現在についてまとめてみました。
数々のギャグや、間寛平さんとの最強コンビは、時代が進んだ今観ても思わず吹き出してしまうほどの破壊力があります。
令和の時代となった今だからこそ、木村進さんがお笑い界に残した多大な功績を、今一度振り返ってみるのも良いかもしれませんね。
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