2023/12/15
take79
お笑いコンビ『バッドボーイズ』の佐田正樹は、暴走族の元総長で警察に逮捕された経歴もあるようです。今回は、佐田正樹が暴走に明け暮れた過去の武勇伝や伝説についてご紹介します。さらに、妻や子供はいるのか、またある会社の経営もしているとの噂の真相にも迫ります。
そんな佐田正樹ですが、どのような人物なのでしょうか。プロフィールについて詳しくみていきましょう。相方の清人についても紹介します。
佐田正樹は現在よしもとのお笑い芸人です。大溝清人と『バッドボーイズ』というコンビで活躍しています。
コンビ揃って暴走族の「福岡連合」出身で、福岡第一高等学校の同級生でもあります。きっかけは暴走族を引退してどうしようもない毎日を送っていた佐田が、担任の教師に「将来何がしたいんだ?」と訊かれ、俳優か歌手になりたいと答えると、「お前は歌手ってガラじゃないし、俳優は台詞を覚えるのが難しいから、清人とお笑いやれ」と促され、1997年4月に結成しました。
佐田正樹は昔からケンカが強かったようで、暴走族の総長にまでのし上がったといわれています。実際どうなのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
暴走族時代は、元・福岡連合二代目総長及び暴走族「幻影」の元総長だったそうで、けんかには負けたことがないのだいいます。でも、暴走族は高校を卒業と同時にやめないといけない規則で、その後高校時代の担任の一言で高校が一緒だった相方清人さんとコンビを組み、1997年4月に芸人になられています。
元々はいじめられっこだったようで、父親から小2のこのころから『ビーバップハイスクール』のビデオをみせられてケンカの英才教育を受けていたようで、そのことがその地位まで登りつめさせるきっかけではないでしょうか。
暴走行為によって逮捕され、留置場を経て、少年鑑別所行きとなったこともあります。それでも高校卒業ができたのは父親が先生に鑑別所ではなく、入院していることにしてくれと頼んだためとも話されています。本当にそれで大丈夫だったんでしょうか。
佐田正樹は元々いじめられっ子だったと言います。しかし、なぜそんな佐田正樹が暴走族の総長にまで登りつめることができたのでしょうか。その謎に迫ります。
ヤンキーだったにも関わらず、幼少期はいじめられっ子でした。そこで勘づいた佐田正樹の父は息子に英才教育をしようと決意しました。それはケンカの英才教育でした。
普通であればいじめがあると息子を守ろうと本人ではなく親が動いてしまうものです。しかし、むしろ本人自身を強くしてしまおうという教育は斬新なものです。
いじめられているという事を親には言えずにいましたが、父親は何かを察して、おかっぱ頭だったを床屋に連れて行き佐田正樹を角刈りにし、柔道教室に通わせ始めます。
さらに、小学2年の佐田正樹に「これを見て強くなれ」と言ってビーバップ・ハイスクールのビデオを渡したそうです。そして、小学3年の時にいじめられていたいじめっ子を懲らしめ、ここから無敗伝説が始まるのです。
ビーバップハイスクールは割り箸を鼻に突っ込むシーンとか過激なシーンが多いヤンキーのドラマです。そんなドラマは普通の親であればむしろ見せたくないと思ってしまうかもしれません。しかし、佐田正樹の親はあえて見せるという手段に出たのです。
佐田正樹はどんどん力をつけて柔道で地区優勝するほどになりました。ケンカが強いのは、ここから来ているのかもしれません。
佐田正樹には様々な武勇伝や伝説が残っています。そのほとんどがワルに関するものですが、だからこそぶっ飛んだものが多いです。そのことについて見ていきましょう。
佐田正樹は仲間と閉店した時計店のショーウインドーを割って入り、時計を盗んだそうです。その盗んだ時計をすぐに質屋に持って行くというなんとも軽率な行動で、結局犯行がバレてしまいます。しかし、この時は主犯格ではなく仲間がかばってくれた為に逮捕を免れたそうです。
かばってもらえるほどの信頼の置ける人物であったといえるのではないでしょうか。
中学2年生の時に腕に刺青を若気の至りで入れました。龍の刺青が入っているのです。テレビで見せると問題になるという事で、芸人となってから今まで、裸になるということはありません。
龍はまた中学生らしいですし、良い青春の思い出と言うことになるのではないでしょうか。
佐田正樹が入学した高校は、福岡第一高等学校という高校で、佐田正樹曰く、馬鹿とヤンキーしかいない学校だったそうです。
映画などでもよく題材にされるような、相当荒れた学校だったようです。中学生の時にすでに番長として君臨していた佐田正樹は、高校に入学時から調子に乗っているやつがいると、噂になっていました。
これは高校に入学早々の出来事です。新しく入学してきた1年生の中に調子に乗っているヤツがいないかと、2年生のヤンキーの先輩が廊下から1年生の授業中の教室を覗き、見回りに来ました。
佐田正樹は、その先輩になめられまいとガンを飛ばしていたら、その2年生の先輩が教室に入ってきて、「表に出ろ!」と、トイレに連れて行かれ、そこで2年生5~6人からボコボコにされました。番長になろうと思って入学してきた佐田正樹はここでやられっぱなしだといけないと思い、トイレの掃除道具入れに置いてあったモップを手に取り、去っていく2年生の背後から近づきその2年生の頭をモップで殴ります。殴られた2年生はその場に倒れ、佐田正樹はその場で先生に取り押さえられ停学となります。
停学が明け、学校に登校すると佐田正樹は1年生の中で有名人となっており、まるでヒーロー扱いだったそうです。
2年生をモップで殴った事で、1年生からは絶大な支持を得た佐田正樹ですが、反対に2年生からは反感をかっていました。その事から、1年生vs2年生の全面戦争に発展します。
放課後、1年生と2年生それぞれ約30人程が体育館に集まります。先生の邪魔が入らないよう全てのカギを締め、そこでお互いの総力を挙げた決闘が行なわれ、結果的に1年生が勝利します。その事で、佐田正樹の名前が高校全体に広がる事となりました。
暴走族同士の抗争で決着をつける時に山タイマンを行い見事勝利したことがあります。
佐田正樹が語る『山タイマン』とは、双方の暴走族が集合している所に、暴走族のOBがY32というかなりイカツイ車が迎えに来て、頭の2人だけがその車に乗せられます。そのまま無言で山の頂上まで連れて行かれ、そこでタイマンし勝った者だけがその車で帰れるというものです。
佐田正樹は、その戦いで相手のマウントポジションを取り負けを認めさせ、見事車で200人もの仲間待つ場所に戻ります。車から佐田正樹が登場した時、その仲間達の盛り上がり、興奮は凄かったそうです。
高校の修学旅行を楽しみにしていたようですが、旅行の出発日当日に逮捕されてしまっています。
これは「すべらない話」で語られていたエピソードです。佐田正樹は、小学校の修学旅行の時に、腕の骨を折っていて皆の迷惑になるからという理由で修学旅行に行けませんでした。中学校の時は、修学旅行前日に張り切って長風呂をしたために、当日40度の熱が出て行けませんでした。
小学校、中学校と修学旅行に行けておらず、高校の修学旅行は非常に楽しみにしていました。そもそも高校は、行くつもりはなかったそうですが、母親に高校だけは出ておくようにと言われ、勉強せずに入学出来て、修学旅行先がハワイ、という理由で高校に進学していました。
そのため、佐田正樹にとって高校の修学旅行はかなり重要なイベントでした。そして高校2年生の冬、修学旅行前日にしっかりと荷物も準備して就寝します。そして修学旅行当日、7時に起きる予定でしたが、朝5時に母親に起こされます。まだ、起きるには時間が早いと思いながら目を覚まし、周りを見ると、ベッドの周りをスーツ姿の警察官に囲まれていました。
佐田正樹には逮捕状が出ており、結局修学旅行に行く前に、手錠を掛けられ、縄で縛られ連行されたそうです。結果的に、佐田正樹は人生で1度も修学旅行を経験する事がなくなってしまいました。
高校三年生という学生最後の時に、伝説に残る喧嘩にすべく派手にしようということで、必要以上に相手をボコボコにし、救急車や警察が来るほどの喧嘩を起こしました。
佐田正樹が高校3年生の時のエピソードです。高校3年ともなると、当時佐田正樹の名前が有名になりすぎて、喧嘩を売ってくる人もいなくなっていました。
福岡の繁華街、中州にいる黒服の人たちですら佐田正樹を見かけるとかならず挨拶してきており、無視出来ない存在だったそうです。また、年上の人達からも “佐田さん” と呼ばれる程でした。
そんな佐田正樹の通っていた高校には工業科・商業科・普通科とあり、合計3000人程の生徒がいたそうです。ちなみに佐田正樹は工業科でした。
ある日、佐田正樹は昼休みを過ごしていたら、見たことない商業科の不良グループに喧嘩を売られます。そして、タイマンを張る事となるのですが、佐田正樹にとって高校最後の喧嘩となるであろうこの喧嘩、伝説に残る喧嘩にすべく派手にしよう、という事で必要以上に相手をボッコボコにました。
普通なら、相手が戦意を失った所で終了なのですが、その時には相手がくたばってもさらにボコボコにしました。
そんな派手な喧嘩が終わり、佐田正樹が商業グループの相手の仲間に救急車を呼ぶよう促したのですが、救急車を呼ぶと警察にも連絡がいくようで、結果的に学校に警察が駆けつけてきてしまいます。
そして、急遽体育館で緊急全校集会が行なわれる事となります。佐田正樹はその時、鑑別所から出たばかりで、保護観察がついており、次に何か事件があると、少年院に行かなければならない状況でした。
その為、バレないよう血のついた服を急いでジャージに着替え体育館に向かいます。そして全校集会で、先生から「この中に殺人鬼がいる。誰か出てくるまで返さない」と言われしばらくは、佐田正樹も黙っていたのですが、2時間が経過し覚悟を決めて自白しました。
それで結局、佐田正樹は職員室に連れていかれ、その後相手のところにお見舞いに行ったそうです。その後、相手も自分から打った喧嘩だからと言い、佐田正樹は少年院行きは免れ、その相手とも親友になったそうです。
佐田正樹は現在何をやっているのでしょうか。年収は高いのでしょうか。調べてみると、会社を持っているようなのです。果たしてその年収とはいくらなのでしょうか。
佐田正樹は趣味のDIYが発展していき、佐田工務店という会社を立ち上げています。
幼い頃から塗装屋に勤めていた父親や、隣に住んでいた大工の影響で道具の扱い方も知っており、何かを製作することが得意だった佐田正樹は、今ではプロとなっています。
愛車もこだわり抜いている佐田正樹は、自他ともに認める車好きで『アメトーク』の「旧車芸人」で自分の愛車を紹介する際にも、熱く語っていました。
暴走族時代にも車やバイクをいじっていたりと、昔から好きだったそうです。特に旧車が好きなようで、愛車の日産ローレルC130型も、探しに探して値切りに値切った後に借金してまで購入しています。
愛車は内装もこだわっていて、全部張替えて、佐田正樹が自分で溶接してつけたドリンクホルダーまであります。もちろんマフラーもカスタムされています。
佐田正樹は自身が暴走族に入っていた事や、逮捕された経歴もあることの経験を活かし、講演会も行っています。2017年には少年院でも講演会を行っています。
少年院では保護観察中の少年や、再犯防止の活動をしている人を前にして講演を行いました。実際に少年院に入っていた事があり、現在では社会人として成功している佐田正樹の話は、心に沁みるようです。
講演後は大喝采が起き、佐田先生と呼ばれる程だったそうです。経験のある佐田正樹だから出来た事で、言葉の重みが違ったのではないでしょうか。
昔より随分更生しているようです。
具体的な年収の情報はありませんでしたが、吉本興業の給料は基本的にかなり安いようです。しかし、ローレルという車に乗れるほどの年収はあるようなので、出来高制の吉本興業ということもあり、活躍に見合った給料をもらっているのではないでしょうか。
2009年M-1王者のパンクブーブー黒瀬純とも交友があります。
佐田正樹とは、お笑いの事務所である吉本に同期で入っていますが、黒瀬純の方が3年年上です。地元も同じ福岡で、黒瀬純の弟と佐田正樹が同級生だったようです。
佐田正樹が黒瀬純の弟を泣かしてしまった時に兄として現れ、佐田正樹をボコボコにして土下座で謝らせたという出来事があり、先輩でもある黒瀬純には今でも頭が上がらないそうです。
佐田正樹は芸人としてだけでなく、俳優として舞台にも出演しています。
「デッド・オア・アライブ・オア・アルバイト」という日常をコメディとして描いた作品や、「ひまわり」というラブストーリーものにも出演しています。
2019年には「甘くはないぜ!3」というスイーツを題材とした舞台にも出演しており、様々な事が出来るマルチタレントとして活躍しています。
元暴走族として、数々の武勇伝を持っている佐田正樹は、実は結婚しており、プロポーズ方法も芸能人ならではの衝撃を与える方法で、武勇伝の1つとなっています。
佐田正樹のプロポーズは、東海テレビで放送されている地域密着型情報番組「スイッチ」の企画で行われました。
2007年の1月の「スイッチ」で佐田正樹は、当時付き合っていた彼女だった恭子さんに公開プロポーズをしました。プロポーズは成功し、同年4月15日に入籍し、晴れて夫婦となっています。
佐田正樹と結婚した恭子さんは、元々高校時代の同級生で、その時から付き合っていたようです。ゴリゴリヤンキー暴走族総長だった佐田正樹が、お笑い芸人となってもずっと支えてくれたそうです。
高校時代から付き合っていたので、11年交際を続けていた事になります。佐田正樹が恭子さんに一目ぼれして、猛アタックしたそうです。
実は妻の恭子さんも元々ヤンキーでした。
レディースのヤンキーだった恭子さんからすると、暴走族をまとめ上げている佐田正樹はカッコいい上に、良き理解者だったのかも知れません。
佐田正樹と恭子さんの間は子供はいなく、2人で生活しているようです。ずっと一緒にも関わらず、現在でも2人で仲良く生活をしていると言われています。
佐田正樹は壮絶な過去を描いた漫画「デメキン」というものを出版しています。やはりあれだけの伝説や武勇伝を残している佐田正樹ですから、漫画化されるのも納得がいくのではないでしょうか。
この作品の内容は、福岡最大の暴走族の総長だった佐田正樹のいじめられっ子だった少年時代から、不良デビューする中学時代、そして暴走族の総長として過ごした青春時代を描いた自伝です。登場人物は実在する佐田正樹の友人となっています。
漫画「デメキン」が2017年に映画として公開し、大盛況でした。2時間という尺にまとめることもあり、群集劇となっている漫画版と比較して、2人によるバディものとして意図的に再構成しています。
主演の佐田役には漫画原作モノを数多く経験してきた伊藤健太郎を配役しています。
彼はaoao所属の俳優です。14歳でボン イマージュに所属し、雑誌、広告を中心にkentaro名義でモデルとして活動します。2014年のドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』にて健太郎名義で役者デビューを果たし、そこから様々な作品に出演しました。
そんな佐田正樹でも負けた試合があるのです。
1つが『虎の門』での柔道大会に出演し、福島善成(ガリットチュウ)と対戦し、追い込まれた佐田正樹が最後にキレて、打撃禁止ルールにも関わらず福島を故意に蹴ってしまい、反則負けになったことがあります。
もう1つが『やりすぎコージー』の芸人格闘王選手権で、打撃なしのグラップリングではあるものの山下しげのりに人生で初めて負けて裏で泣きました。後にトレーニングを積みリベンジを果たしたが、右足じん帯を痛め、次戦はドクターストップとなってしまいました。
しかし、すべて何かしらのハンデがあるため、ハンデなしであればずっと無敗であるといえるでしょう。
佐田正樹は元々いじめられっ子でしたが、そこからケンカの英才教育を受けて芸能界ではケンカ最強となっています。そして、ワルの時代に起こした伝説や武勇伝は漫画化までされ、映画化もされています。
趣味もたくさんあり、かなり充実した現在といえるでしょう。これで漫才のケンカでも勝てると本物といえるのではないでしょうか。
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