船坂 弘の不死身伝説がすごい!!子孫が大盛堂書店を継いだ?

生きる伝説『不死身の分隊長』こと船坂 弘さんをご存知でしょうか。この方の戦時中の活躍や生き様を知れば、言葉にならないほどの衝撃を受けます。実際に当時、同僚の陸軍から『不死身の分隊長』と呼ばれるほど最強の軍人でした。そんな船坂 弘さんの生き様を解説していきます。

船坂 弘さんの伝説が始まるまでは?

農家の三男でガキ大将

船坂 弘さんは、現在の栃木県栃木市西方町である、栃木県上都賀郡西方村の農家の三男として誕生しました。幼い頃から元気の良いきかん坊で、近所ではガキ大将で有名だった舩坂弘さんは、尋常高等小学校を終えて公民学校を卒業しましたが、もっと上を目指したいという向上心から早稲田中学講義録で独学を開始します。

 

その後はその努力が実った船坂 弘さんは、専門学校入学者検定試験に合格し、翌年1939年には満蒙学校専門部に入学して3年間勉強しました。

現役で陸軍に入隊

船坂 弘さんは、1941年に現役で宇都宮第36部隊に入隊し、その直後に満州に渡り、斉斉哈爾第219部隊に配属されました。斉斉哈爾第219部隊とは、宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊で、仮想の敵国であるソ連軍の侵入に備えて、ノモンハン付近やアルシャン、その他ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備隊として活躍しました。

 

船坂 弘さんは、通称石原中隊といわれる第59連隊第1大隊第1中隊擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦が勃発した際には15人を率いる擲弾筒分隊長として全体を指揮していました。

剣道と銃剣術に優れていた

船坂 弘さんは、軍隊当時から剣道と銃剣術の有段者で、どちらも得意としていましたが、特に銃剣術に優れていて、その腕前は、斉斉哈爾の営庭で行われる訓練中には、陸軍戸山学校出身の准尉から「お前の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と保証されるほどでした。

 

また、船坂 弘さんは、擲弾筒分隊長を努めていましたが、一方で中隊随一の名小銃手でもあり、軍隊に入隊以来、すでに射撃では30回の賞状や感状を受けていました。さらに、斉斉哈爾第219部隊に於いて、「射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に授けられたのは後にも先にも舩坂だけだ」と評判の有名人でした。

除隊を目前に戦場に上陸

1944年3月1日、戦争の状況が悪化したことから第59連隊にも南方作戦動員令が下りました。そのとき、すでに除隊を目前に控えていた船坂 弘さんでしたが、戦争の状況下では除隊は許されることはなく、翌月の4月28日、アンガウル島に大隊主力と共に上陸することになりました。

 

アンガウル島に上陸した当時の船坂 弘さんは23歳。中隊では部下からの人望も厚く、一番の模範兵として活躍されました。

 

 

船坂 弘さんの不死身伝説が始まる!

アンガウルの戦いで戦果をあげる

第二次世界大戦におけるパラオ・マリアナ戦役の最後の戦いであるアウンガウルの戦い。この戦いにおいて、船坂 弘さんは擲弾筒および臼砲において、100人以上の米兵を殺傷し、大きな戦果を上げました。舩坂弘さんは、水際作戦によって中隊が壊滅する中でも筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続けて、退却後は大隊で生き残った兵隊らと共に、島の北西の洞窟に立てこもり、ゲリラ戦へと移行しました。

軍医に助からないと判断される

アウンガウルの戦いの3日目、米軍に攻撃された船坂 弘さんは左大腿部に裂傷を負い、米軍の銃火の中に数時間放置されるという過酷な状況下におかれました。軍医がやっと船坂 弘さんの元に到着したときには、傷口を見るなり、自決用の手榴弾を船坂 弘さんに手渡して立ち去ってしまったといいます。船坂 弘さんは、軍医からもう助からないと判断されてしまったのです。

自然回復で完全復活

左足を裂傷したことで、軍医からは助からないと判断された舩坂弘さんでしたが、自身は決してあきらめませんでした。舩坂弘さんは、負傷した左足に包帯の代わりに日章旗を縛り、止血して、歩けないかわりに夜通し這って洞窟陣地まで向かい、翌日には、負傷した左足を引きづりながらも歩けるまでに自然回復したのです。

 

舩坂弘さんは、さらに命を落とすほどの傷を負ってしまい、動くこともままならなくなってしまいましたが、数日で自然回復するのが普通になっていました。そのことに対して舩坂弘さんは、後に「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と分析しています。

不死身の分隊長と呼ばれる

こうして、船坂 弘さんは瀕死の状況でも見事な回復を遂げ、絶望的な戦況下にありながらも、拳銃の3連射で米兵を倒したり、米兵から奪った短機関銃で一度に2人も倒すなど、左足と両腕を負傷した状態でも、銃剣で1人刺した後に短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、驚くほどの奮戦を続けました。

 

こうした船坂 弘さんの人間離れした姿は、仲間の兵隊たちからは「不死身の分隊長」と呼ばれていました。

自決を試みるも失敗する

そんな不死身といわれた舩坂弘さんの奮闘もありましたが、食料や水が底をついた戦場での戦いは、多くの日本兵をじりじりと追い詰めていったといいます。そのため、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声が響きわたるなど、生き地獄の様相になっていました。

 

そのため、当時、腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしかできなくなっていた船坂 弘さんも、傷口から蛆虫がわくのを見るなどして、蛆に食べられて命を落とすくらいなら自決の方がマシであると自決の道を選ぼうとしました。しかし、自決のために放った手榴弾は不発。船坂 弘んは、呆然として自決未遂という結果に「なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのか」と、この上ない絶望感に打ちひしがれたといいます。

米軍司令部に単身で乗り込む

そんな過酷な戦況では、船坂 弘さんの仲間たちも次々に倒れ、壊滅の一途をたどりました。舩坂弘さんは悪化していく戦況の中、せめて死ぬ前に一度的の将軍に一矢報いんとばかりに、単身で米軍司令部へ斬り込み、肉弾自爆を決意します。舩坂弘さんは、自身の体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃一丁を手にし、数夜、這い続けて前哨陣地を突破。なんと、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入することに成功しました。

 

船坂 弘さんは、戦闘当初からこの時点までで大小24箇所の負傷があり、さらにこのうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所もあり、右肩捻挫、右足首脱臼まで負っていました。また、長い間這っていたため肘や足は服が擦り切れてボロボロ。また、連日の戦闘によって火傷と全身の20箇所に砲弾の破片が食い込んだ状態であったため、その姿は、亡霊や幽鬼を思わせたといいます。

頸部を打たれて戦死と断定される

単身米軍司令部に乗り込んだ舩坂弘さんは、米軍指揮官たちが指揮所テントに集合する時間に突入すると計画していました。舩坂弘さんは、米軍指揮所周辺にいた歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人の指揮官が指揮所テントに集まる時を狙って待ち構えていたのです。

 

舩坂弘さんは米軍が乗ったジープが次々に司令部に乗り付けるのを見て、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がりました。突然現れた舩坂弘さんの姿を見た米兵は、異様な風体の日本兵に呆然として、しばらく声も出なかったといいます。

 

そんな米軍の動揺を見抜いた舩坂弘さんは、指令部目掛けて突進。そして、榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれてしまい倒れ、戦死と見なされました。その後、舩坂弘さんの元にかけつけた米軍軍医は、もう助からないと思いながらも野戦病院に搬送しましたが、軍医は、手榴弾と拳銃を握り締めたままの舩坂弘さんの指を一本一本ときほぐして、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と米兵に向けて話しています。

 

 

「勇敢なる兵士」と称賛

軍医の話を聞いていた船坂 弘さんは、情けをかけられたと勘違いし、激怒したことから周囲の医療器具を壊してしまいます。また、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付けて、「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と叫びながら暴れ回ったといいます。

 

この船坂 弘さんの奇妙な行動はアウンガウルの米兵の間でも話題になり、船坂 弘さんの無謀ともいえる計画に対して多くの米兵が勇気をたたえて「勇敢なる兵士」と称しました。元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラー氏は、戦後船坂 弘さんに宛てた手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」という言葉を送っています。

3日後に野戦病院で蘇生する

負傷した船坂 弘さんは、数日の捕虜訊問を経てペリリュー島の捕虜収容所に到着しました。そして当時、瀕死の状態と判断されていた船坂 弘さんでしたが、3日後には米軍野戦病院で蘇生しています。

 

当時、「勇敢な兵士」といわれた舩坂弘さんの伝説はペリリュー島にまで伝わっていたため、米軍側では「言動に注意しろ」といわれるくらい要注意人物とされていたようです。

 

 

 

船坂 弘さんは無事帰国を果たす

捕虜として脱獄も成功させる

敵軍にとらえられた身でありながらも闘士は燃え続けていた船坂 弘さんは、ペリリュー島に身柄を移されてから2日目には収容所を脱出します。瀕死の重傷だと思われていた船坂 弘さんの監視は甘く、船坂 弘さんにとっては都合のよい環境にあったようです。その後、船坂 弘さんは、1000メートルを潜んで行き日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬を使って米軍弾薬庫の爆破に成功しています。

 

さらに、船坂 弘さんは飛行場を炎上させることを計画しますが、収容所に勤務していたF.V.クレンショー伍長に阻止され失敗しています。その後、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦までの間、収容所を転々としました。

終戦後日本に帰国する

アンガウル島守備隊が1944年10月19日に玉砕したことから、同年の12月30日、舩坂弘さんの実家にも戦死公報が届きました。このことから、舩坂弘さんは1946年に日本に帰国するまでの1年3ヶ月の間、戸籍上では死亡扱いになっていて、舩坂弘さんを知る人物もみんな戦死を疑いませんでした。

 

舩坂弘さんは、日本に帰国して始めに行ったことは「舩坂弘之墓」と書かれた自身の墓標を抜くことであったといいます。

大盛堂書店を開業する

戦後復興の中、船坂 弘さんは戦争での強烈な体験から、自身の目で見てきたアメリカのあらゆる先進性を勉強することが日本の産業や文化、教育を豊かにすることに繋がるのではないかという考えから、書店経営を思い立ちました。そのため、渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、戦争から帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけました。

 

これが、日本で初の試みとなる、建物全体を使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設のはじまりとなっています。

三島由紀夫とも親交がある

船坂 弘さんは、剣道を通じて小説家である三島由紀夫さんとも親交があり、船坂 弘さんの自叙伝「英霊の絶叫-玉砕島アンガウル」には三島由紀夫さんの序文が寄せられています。また、1970年に三島由紀夫さんが自決するときに介錯に使われた自身の自慢の愛刀・関の孫六(後代)は船坂 弘さんから贈られたものだといいます。

 

この経緯は「関ノ孫六」に詳しく記されています。

 

戦地に慰霊碑を建立する

船坂 弘さんは、著書「英霊の絶叫」のあとがきにアンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自分の生涯を賭けた使命と記したことから、同書を読んだ人々からの義援金に助けられ、慰霊碑の建立が実現しました。また、その後も、戦記を書いた印税を投じてペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立しました。

 

この慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と刻み込まれていて、書店経営の忙しい中でもアンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かすことはなかったといいます。

 

 

船坂 弘さんの著書を紹介!

『英霊の絶叫- 玉砕島アンガウル』

『英霊の絶叫- 玉砕島アンガウル』は、文藝春秋により1966年12月に出版されました。この一冊には、舩坂弘さんの全102巻に及ぶ戦史叢書の中で、唯一個人の戦闘記録が掲載されています。戦時中に船坂 弘さん個人が経験したことや、戦史叢書や米軍側資料を交えて当時の様子が記されているので、読んでいると戦地の様子が目に浮かぶようです。

 

また、この本を読み進めるうちに船坂 弘さんの平和への思いが強く感じられることから、船坂 弘さんが供養のために書いたのではないかといわれています。さらに、仲間を次々に失い、自らも過酷な体験を重ねた舩坂弘さんからの現代の人々へのメッセージでもあるようです。

『殉国の炎』

『殉国の炎』は、潮出版により1971年3月に出版されました。この一冊は、親交のあった三島由紀夫さんが自決した後に書かれたために三島さんに見てもらえなかったことを船坂 弘さんが残念に思っている様子が伝わってきます。

 

この著書には『英霊の絶叫- 玉砕島アンガウル』に書ききれなかったことが記載されていて、さらにリアリティあふれる内容になっています。船坂 弘さんが一度、自決を決心したときがありますが、その当時の様子などが描かれていて心が痛みます。また、戦死と断定されてから、終戦を迎え、ボロボロになりながらも日本に帰還した様子からは船坂 弘さんの生命力の強さを感じされられます。

『秘話パラオ戦記 - 玉砕戦の孤島に大義はなかった』

『秘話パラオ戦記 - 玉砕戦の孤島に大義はなかった』は、光人社、1977年に出版されたものが改題となり、2000年に出版され、2016年には新装版が出版されました。内容は一通の手紙から始まり、ミステリー形式で展開していきます。

 

この著書では当時、不死身の兵隊といわれた船坂 弘さんがペリリュー戦で生還した4名の生還兵にも取材いていて「秘話」といわれるにふさわしい珍しい驚きのエピソードが記載されています。それは、一番の模範兵として信頼され尊敬された船坂 弘さんだからこそ聞き出せる内容となっており基調な一冊になっています。

『ペリリュー島玉砕戦 - 南海の小島七十日の血戦』

『ペリリュー島玉砕戦 - 南海の小島七十日の血戦』は、叢文社により1981年7月に出版されたものが改題となり、光人社NF文庫より2000年に出版され、新装版が2010年に出版されました。

 

この一冊に描かれているペリリュー島やパラオ本島での様子は、舩坂弘さんの緻密な調査や元守備隊員だった人々による証言から記載されていて、当時、死に物狂いで戦い続けた多くの人々のリアルな様子伝わってきます。さらに、ペリリュー島に今でも残る無傷の零戦が残る様子や、命を落とした多くの人々の骨が今でもパラオ諸島の洞窟陣内に眠っていることを印象づける作品となっています。

 

船坂 弘さんは「生きている英霊」

印税は国際赤十字社に寄付

舩坂弘さんは多くの著書を出版しましたが、それらの印税は自身のために使われることはなく、「世界の人々に役立ててもらいたい」という考えの元、慰霊碑を設立し、全額を国際赤十字社に寄付されています。

慰霊団を組織

多くの地域に慰霊碑を設立した舩坂弘さんですが、さらに戦死した遺族を募って慰霊団を組織し、現地墓参に引率したり、パラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽くしました。また、数年にわたる戦没者の調査と遺族への連絡等々、精力的に活動を行い、その人生を捧げました。

 

このことから、舩坂弘さんは「生きている英霊」と呼ばれ、業績が称えられています。

船坂 弘さんの生命力の偉大さに感動

アンガウルの戦いでは自分の持つすべての力を発揮し、たくましく帰還した日本兵の誇りである舩坂弘さん。さらに、帰国後には、当時の様子を現代まで語り継ぎ、多くの人に多大な影響を与えた人でもあります。これほどまでに生命力のある日本人が存在したことは、わたしたち日本人の誇りではないでしょうか。舩坂弘さんの思いが尽きることなく、これからも人々に受け継がれていくことを真摯に願います。

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