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2023/12/28
大今里
2018/01/20 更新
今年に入って直ぐに入ってきた女優真屋順子の訃報。大人気番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』では、日本一のお母さん役を演じ、お茶の間を楽しませてくれました。多くの作品に出演した輝かしい経歴と共に、病気と闘っていた事も含めて、真屋順子の経歴を振り返ります。
欽ちゃんのどこまでやるの!?
真屋順子のプロフィールは、
本名 高津 詔子 (旧姓:岩尾)
生年月日 1942年1月8日
没年月日 2017年12月28日(75歳没)
出生地 朝鮮、釜山府
血液型 O型
ジャンル 女優
配偶者 高津住男(2010年死別)
戦後3歳の時に、当時日本の領地だった朝鮮の釜山から引き揚げてきました。
大分県で高校に通っていましたが中退し、松竹歌劇団に通い始めました。
ママレモンcm
1965年からテレビドラマに出演し、1970年代にはライオンの家庭用食器洗剤などのCMに出演、1976年には真屋順子の経歴の中で一番知られているだろう、代表番組とも言える『金ちゃんのどこまでやるの!?』に出演し始めました。
この頃の出演ドラマ経歴を見てみると、年に5本ほどあり、華やかな仕事ぶりだったと言えます。
時代劇の出演も多く、銭形平次、大河ドラマ 天と地と、鬼平犯科帳(松本幸四郎) 、大忠臣蔵 などなど、多くの作品に出演した経歴が残っています。
様々な作品に出演していた中で、こんな経験もしています。
1977年に、山口百恵主演の『赤い絆』に出演し、山口百恵の適役を演じました。
すると、視聴者から酷い反感を受け、真屋順子はとても悩んだそうです。
そんな時、欽ドコの萩本欽一が、「ドラマが終われば、欽ドコにウエイトを大きくしなよ」と励まし、萩本欽一は、「真屋順子を日本一のいいお母さんにしてあげよう」と思っていたそうです。
1980年には、夫の高津住男と劇団樹間舎を旗揚げし、順調に仕事を続けていました。
ドラマ『おはなはん』
このドラマ『おはなはん』は、1966年に放送されたNHKの連続ドラマでした。
驚くのがその人気で、視聴率で、平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%だったそうです。
主役は樫山文枝で、演じたはな役がはまり役となり、2010年に行った朝日新聞のbeランキング「心に残る朝ドラヒロイン」のアンケート結果では、樫山文枝が堂々の第1位になりました。
1966年の朝ドラが、2010年の時点で一位とは、本当に凄い結果です。
そんな『おはなはん』に、真屋順子も出ていました。
主人公の長男の初恋の女性という役柄でした。
これだけ注目を浴びていたドラマに出演していたなんて、輝かしい経歴ですね。
欽ちゃんのどこまでやるの!?
先に書いたように、1976年に萩本欽一率いる番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』に出演、ちょっと天然で、でも優しくて強いお母さんとして10年もの間出演していました。
萩本欽一と夫婦役を演じた真屋順子、2人には長男の見栄晴、三つ子の女の子で長女ののぞみ、次女のかなえ、三女のたまえという4人の子供たちがいました。
この4人の子供たちも大ブレイクしました。
見栄晴は、当時の芸名だった藤本 正則ではなく、見栄晴という名でお茶の間に知れ渡り、後に見栄晴に芸名に替える程のはまり役でした。
三つ子ののぞみ、かなえ、たまえは、3人で歌った「わらべうた」「もしも明日が…」が大ヒット、多くの人に歌われました。
この『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で見た真屋順子の家庭は、羨ましいくらい仲が良く、面白い家庭でした。
しかし、実の子供たちの生活は荒れていたようで、見栄晴はギャンブルで借金を抱える程だったそうです。
長女ののぞみは、当時の一大スキャンダルとなった「ニャンニャン事件」を起こし、この番組だけでなく、芸能界の仕事を全て失いました。
そんな子供たちの、仕事柄とはいえ母親だった真屋順子は、心を痛めたでしょうね。
藤吉久美子
真屋順子の輝かしい経歴の中には、女優としてだけではなく、この『よーいドン』のようにナレーションとして活躍した経歴があります。
1982年のこのドラマは、藤吉久美子のドラマデビュー作でした。
昭和初期の大阪が主な舞台で、裕福な家庭に生まれた女性が、家業の倒産から苦しい生活に追い込まれながらも、マラソンランナーとして生きていくというストーリーでした。
平均視聴率は38.8%、最高視聴率は43.1%と、これも高視聴率ドラマでした。
真屋順子の輝かしい経歴と言えます。
青空に一番近い場所
1994年に放映された映画『青空に一番近い場所』では、真屋順子はおばあちゃん役を演じています。
ストーリーは、ノルマを埋めるために自分で会社の商品を買い続けた末に、借金が900万円になり、サラ金の取り立てに追われていた北川というサラリーマン。会社でも窮地に追い込まれており、苦しい毎日を送っていました。
そんなある日、取り立て屋に追われ逃げ込んだ会社の屋上で、彼は不思議なおばあちゃんとOLに出会います。
その屋上で起きる不思議な現象、自殺したはずの元同僚をはじめ、天国へ行けず屋上に留まる人々にも出会うのです。
そんな不思議な物語の、屋上にいたおばあちゃんを真屋順子が演じていました。
母親役からお婆ちゃん役へのシフトし、年齢と共に役柄もシフトし、正に順調な経歴を歩んでいました。
若かりし頃の真屋順子が森昌子と共演
しかし、2000年に脳出血で倒れ、左半身麻痺などの後遺症が残ります。
夫の懸命な看病のおかげと、懸命なリハビリテーションを行ったおかげで、車椅子で舞台に復帰することが出来ました。
2010年に夫の高津住男が亡くなり、翌年には、真屋順子本人に大動脈瘤が見つかり大手術を受けました。
手術後、リハビリを続け復帰、リハビリの体験談をテレビで話すまでに快復もしていました。
しかし、2017年に出演したTBSテレビ『爆報! THE フライデー』で、ほぼ寝たきりの状態となったことが明らかになり、これが生前最後のメディア出演となりました。
真屋順子は、デビューしたてで悩んでいた頃の見栄晴に、
『見栄晴、あなたは本番に強いから大丈夫よ! 頑張って!!』
と励ましていたそうです。
『欽どこ』が終わった後も、見栄晴のことを気にしていて、たまたま隣のスタジオでドラマの収録をしていたら、
『見栄晴が心配で、大丈夫か見に来ちゃった!』
と見に来たり。
見栄晴の実のお母さんが亡くなった時も、自分が闘病中だったにも関わらず
『見栄晴、お母さん亡くなったんだって? 良いお母さんだったのに残念ね…。あなたは大丈夫?』
と心配していたとか。
欽ちゃんのどこまでやるの!?の小堺一機
真屋順子が亡くなった際には、欽ドコドコでグレ子を務めた小堺一機は、
『欽ドコでまだ半人前の私が大将(萩本)の稽古でうまくできない時も、穏やかな笑顔で、『面白かったよ、大丈夫よ。』とさりげなくさりげなく支えてくださいました。甘えっぱなしで何の恩返しも出来なかったのが悔やまれます』
とコメントしています。
欽ちゃんのどこまでやるの!?の三つ子
わらべの二女かなえも、中学3年生でデビューした当時、
『毎日楽屋にお邪魔してお茶を飲んでました。本当に優しい人でした』
と言っています。
優しくて、頼られる正に母親的存在だったようです。
欽ちゃんのどこまでやるの!?
真屋順子の経歴は、デビューしてからドラマなどに多数出演し順調でした。
彼女の経歴の中で一番の代表作となった『欽ちゃんのどこまでやるの!?』では、母親役として更に世間に知られるようになりました。
その後も仕事は順調でしたが、2000年に病で倒れ、リハビリを行い復帰、車椅子で活動もしました。
夫が亡くなり、自分も癌であることが判明、手術を受けて復帰しましたが、その後、闘病生活に入り、2017年12月28日に亡くなりました。
闘病中も、真屋順子を本当の母親のように慕う『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の子供たちがお見舞いに訪れ、愛された人生でした。
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