江利チエミの元夫、高倉健の不器用さが江利チエミをお酒に溺れさせた
2016/08/05
セラフィム
高倉 健(たかくら けん)
1931年(昭和6年)2月16日 - 2014年(平成26年)11月10日(満83歳没)
福岡県中間市出身
身長 180cm
血液型 B型
高倉プロモーション所属
代表作は映画『日本侠客伝シリーズ』、『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『新幹線大爆破』、『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』、『野性の証明』、『南極物語』、『ブラック・レイン』、『鉄道員(ぽっぽや)』、『あなたへ』など。
正直、高倉健さんの作品は比較的最近のものばかり見ているのですが、特に「鉄道員」が大好きで、何度みても高倉健さんの映画での死に様に泣かされてしまいます。
「昭和残侠伝 死んで貰います」(C)東映
高倉健さんの迫力ある一枚です。
江利チエミ(本名:久保智惠美)
1937年(昭和12年)1月11日 - 1982年(昭和57年)2月13日(満45歳没)
東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)出身
血液型 A型
父・久保益雄は独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、智惠美が生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業に所属していた(デビュー当時のチエミも吉本に所属していた。デビュー当時の吉本は今のような規模になく花菱アチャコ・チエミくらいしか稼げるスターはいなかった)。バンドマスターを経て吉本所属(東京吉本)の大スター、柳家三亀松(三味線漫談)の相三味線やピアノ伴奏を務める(三亀松の語りにあわせての効果音的なピアノ伴奏は絶妙で、三味線もコードを変えて音を重ねるなど巧みな腕を持っていた)。この三味線、ピアノも独学で習得したものだった。
母は、SKDが東京に出来る前の宝塚歌劇のようなレビュー一座・東京少女歌劇出身の女優、谷崎歳子である。のちに浅草の軽演劇の舞台に立ち、吉本興業に所属する。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、智惠美を身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。
元妻・江利チエミさんは芸能のサラブレッドだったんですね。
“少女歌手・江利チエミ”のルーツは「生活を支えるため」であり、師匠である柳家三亀松とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。
生活を支えるためとはいえ、まだ少女の江利チエミさんにこれだけのものを支えるにはまだまだ荷が重いと思うのは私だけではないと思います(泣)。
進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智惠美はドリス・ディの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた(以下、「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。
元妻・江利チエミさんの代表曲である「テネシーワルツ」の誕生のきっかけは、進駐軍兵士からレコードをプレゼントされたところだったんですね!
「テネシーワルツ」を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードにパスし、1952年(昭和27年)1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのときチエミは15歳だった。
あの「テネシーワルツ」は江利チエミさんが15歳のときに誕生したんですね!若いのにあんな大人っぽい曲を歌い上げるなんて、すばらしい表現力です!
この曲を聴くと自然と涙がこぼれてきます・・・。
若かりし頃の高倉健さん。
高倉健さんと江利チエミさん、二人の出会いとなったのは1956年(昭和31年)、映画『恐怖の空中殺人』でした。
この映画での共演がきっかけとなって、高倉健さんと江利チエミさんは1959年(昭和34年)に結婚します。
高倉健さんと結婚して3年後に江利チエミさんは妊娠しますが、重度の妊娠中毒症(現在は妊娠高血圧症候群と呼ばれている)を発症。残念ながら子宝には恵まれませんでした。
そして、1971年(昭和46年)に高倉健さんと江利チエミさんは離婚します。
高倉健さんと江利チエミさんの離婚の原因となったのは、不仲とかではなく江利チエミさんの異父姉の存在が原因です。以下引用します。
名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、さまざまな事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになるが、ある日「スター歌手、江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知った。
Y子は「離婚して経済的に困窮している」、と嘘を騙り、家政婦・付き人としてチエミに近づき家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり、経理を任されるまでになった。嫉妬心に駆られていたY子によって、ここから 嫉妬の対象をおとしめようとする犯罪的な行動が始まった。
Y子は高倉健、チエミに、それぞれについて でっちあげの誹謗中傷 を吹聴、ふたりを別居に追い込み、離婚への足がかりを作ることとなる。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金をし、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論するとともに、チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露を展開、挙句は失踪、自殺未遂騒動まで引き起こす。チエミは自己破産をせず「責任は自分でとる」と決意、断腸の思いで義父姉を告訴。義父姉には懲役3年の実刑判決が下っている。不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行だった。
このような出来事がきっかけとなり、「これ以上健さんに迷惑はかけられない。」と離婚を決意されたようです。ほんとに不本意な離婚だったんですね。
その後、借金を完済し異父姉とのトラブルも落ち着きを見せたので、江利チエミさんはもう一度高倉健さんに会いに行き、騒動を謝罪。そして、「もう一度一緒になれないかしら?」と高倉健さんにお願いします。しかし高倉健さんは、「一度離婚会見まで開いて、新聞にも載ってしまったんだから、もう戻れない。」と江利チエミさんに諭すように言ったそうです。
1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。45歳没。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息(誤嚥)によるものだった。
突然の悲報に驚かれたことだと思います。
しかし、葬儀の日に高倉健さんの姿は見えませんでした。ただ、本名である、「小田剛一」名義で花を出し、人目の付かない場所まで車で来て、1時間以上手を合わせていたそうです。
江利チエミさんとの思い出が詰まった場所ということもありますが、チエミさんが眠るお墓がそこから約200mほどの場所にあったから、そこに家を新築したんです。高倉健さんは人目を忍んでは、江利チエミさんの命日に墓前で手を合わせていたそうです。
TVでもやっていましたが、江利チエミさんの命日の日には決まって花が送られてきたそうです。高倉健さんは江利チエミさんへの愛を貫き通していたのでしょうか。
主人公の佐藤乙松(おとまつ)は、北海道の道央(十勝・空知と推測されるが、あくまで架空)にある廃止寸前のローカル線「幌舞線(ほろまいせん)」の終着駅・幌舞駅の駅長である。鉄道員一筋に生きてきた彼も定年退職の年を迎え、また同時に彼の勤める幌舞駅も路線とともに廃止の時を迎えようとしていた。彼は生まれたばかりの一人娘を病気で失い、また妻にも先立たれ、孤独な生活を送っていた。
ある雪の日、ホームの雪掻きをする彼のもとに、忘れ物をしたと一人の鉄道ファンの少女が現れる。乙松が近所にある寺の住職の孫だと思い込んだ彼女の来訪は、彼に訪れた優しい奇蹟の始まりだった。
主人公と高倉健さんの状況が重なります。
映画の中で亡くなった妻が好きで良く口ずさんでいた曲として、劇中で流れてくる「テネシーワルツ」。そうです。高倉健さんの妻・江利チエミさんの代表曲です。実際に高倉健さんが、この曲がいいとリクエストしたそうです。そして、クライマックスでの「テネシーワルツ」。思い出すだけで胸が熱くなります。
高倉健さんの妻・江利チエミさんへの一途な思いを感じさせてもらえる映画でした。
お二人が天国で、今度は誰の邪魔もされずに穏やかに過ごされていることをお祈り致します。
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