木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
三国志と言うと一言で言えば、争乱の歴史です。大きな流れがあり、そこに逸話や列伝などがあります。私の考えているところの簡単な三国志をまとめましたので、ご覧ください。
まず物語は張角と言う人物が黄巾の乱を指導して、当時の漢政府に反旗を翻す所から始まります。当時の漢政府内では宦官がはびこり、汚職が蔓延していました。当然それに反対する勢力と張角がくっつきこの黄巾の乱は政府では対処しきれなくなりました。
そこで、地方を治める諸侯や義勇兵などを使ってこの混乱を納めようとします。この中に後に三国の英雄の礎となる猛者が沢山含まれています。やがて争乱は収束していき、混乱は収まったかに見えました。
しかし地方から中央へと来た諸侯の中には、大きな野心を秘めてきたものもいます。それが董卓です。董卓は混乱の際に逃げ出した皇帝と皇帝の弟を手中に収め、中央権力を武力で掌握します。対して袁紹、袁術を中心として、反董卓連合を結成します。この呼びかけを行ったのが曹操だと言われています。
反董卓連合は孫堅などの活躍により董卓を都洛陽から長安へ追い出します。その際に董卓は洛陽に火を放ち、墓などから貴重品を根こそぎ持って行ったとされています。董卓を追いやったことにより、諸侯は追撃をやめて、各地で地力を養うことになります。
やげて、諸侯は袁紹側と袁術側に分かれて対立を深めていきます。袁術側についた董卓との戦での最大の功労者孫堅は袁紹側についた劉表を攻め、これに敗れ戦死しています。
袁紹側が次第に優勢になる中、長安では呂布が董卓にクーデターを起こし、董卓を殺します。(貂蝉と言う美女を巡った争いだと言われていますが、)その呂布も董卓の残党に追われ、長安から逃げ出します。そして巡り巡って、呂布が選んだ先は曹操が当時、徐州を攻める為に開けておいた地である濮陽です。
一方袁術側では、父親が死に袁術の保護となっていた孫堅の長男孫策が袁術から兵を借り周瑜などと共に揚州を攻めていきます。孫策の戦上手なども相まって揚州は平定されます。
徐州では劉備が当時の徐州を治めていた太守から徐州を譲られます。劉備は呂布などが本拠地を攻めたこともあり、曹操を一旦追い払うことに成功します。その一方で袁術は孫策の独立などにより、勢力を弱めていきます。いずれ袁術は曹操劉備連合軍などに敗れてしまいます。その際に徐州で、濮陽を追われていた呂布が、劉備のいない間に占拠し、劉備は一旦、曹操の軍門に下ります。
その呂布も曹操に討たれることになります。やがて曹操は(漢の皇帝)献帝を庇護し、天下に覇を唱える存在となります。呂布が討たれた後の徐州は劉備が治めるようになりました。
次第に力をつけて自身にも劣らない勢力を身に付けている曹操をみて、袁紹は気分がいい訳はありません。そこで劉備や孫策などに働きかけ、曹操を潰そうとします。しかし、劉備は曹操に攻められ敗北、孫策は何者かに暗殺され、その計画は白紙になります。(袁紹が期を逸したとも言えますが)やがて袁紹と曹操の間で戦いが起こります。これが官渡の戦いです。結果は曹操の圧勝、袁紹は力を大きく失います。
官渡の戦いの際に劉備は袁紹側の武将として戦っていました。しかし、背後から曹操を挟み撃ちにする作戦を袁紹に持ち掛け、曹操の背後の汝南へ行き、ゲリラ活動をします。しかし曹操には敵わないと判断した彼は、同族の劉表に保護を求めるように、荊州へと行きます。
その荊州で軍師として、徐庶、そして徐庶の後任に諸葛亮孔明と得ます。(三顧の礼はこの時に)孔明は劉備に荊州とまだ勢力の及んでいない益州をおさえ、一方の勢力になりつつある孫権(孫策の弟)と同盟と結び、三国鼎立を目指すべきと指南します。
袁紹の残党勢力をことごとく討ち果たした曹操は次に南に目を向けます。この状態では彼の敵はありませんでした。荊州への侵攻を決めた時に荊州牧の劉表が病死します。この為荊州は大混乱、曹操に帰順することに決まり、曹操と戦っていた劉備は南に逃れます。(この時が長坂の戦い)辛くも劉備を保護する勢力との合流に成功し、劉備は孫権を頼ることになります。
同盟使者には孔明が、魯粛などの協力もあり、周瑜の意見によって孫権は劉備と同盟をして、曹操と戦うことになります。これが赤壁の戦いです。曹操軍100万、孫権・劉備軍20万と言われていますが、龐統などの登場と、風の向きの変化を利用した周瑜の火責めによって曹操軍は壊滅、曹操は都に逃れます。この時、劉備は荊州の南側をおさえることに成功しています。
周瑜が亡くなり、呉は親劉備派の魯粛がトップに立ち、後顧の憂いが無くなった劉備は益州へ侵攻します。数々の武将の活躍などもあり、劉備は益州、荊州の一部をおさえ、人材も豊富な一大勢力へとなりました。
益州に入っていた曹操軍も破った劉備、自らを漢中王と名乗り、曹操のいる都へと手を伸ばしつつある頃、孫権が荊州へと進出します。そして当時荊州を守っていた関羽は孫権軍の呂蒙に敗れ、麦城で討ち死にします。
関羽を失った劉備にはもう1つ悲しい出来事がありました。それは曹操の後を継いだ曹丕が献帝を廃し、魏を建国したことです。
死ぬときは一緒だと誓い合った義兄弟と念願であった漢の再興への道が失われ、劉備の怒りは関羽を討った呉へと向けられます。魏に対抗して蜀(蜀漢)を建国、そして翌年荊州へと進軍します。この時に劉備を迎え撃ったのが、陸遜です。陸遜は持久戦に持ち込み、劉備の陣形が乱れたところを火責め、見事に追い払いました。
劉備は命からがら蜀の白帝城に逃げ込み、そこで孔明らに後事を託し、病死します。皇帝の死に蜀では反乱が相次ぎ、孔明はその収束に努めます。呉と再び盟約を交わし、一番大きな南側の反乱の主であった孟獲を討つため遠征します。
孟獲を帰順させ、蜀へと戻った孔明は再び呉と同盟を結び、魏を討伐する為に遠征します。(北伐)しかしその北伐というのは、天下統一の戦いというよりも蜀を保つ為に行われていたという意味合いが強いです。一時期は長安へ迫るも、あと一歩のところで兵糧が足りずに撤退という戦いを繰り返します。
この中で孫権も帝位に就き、呉を建国しています。魏は蜀と呉の両面作戦をしなければいけない状態でも尚、兵力と人材で優位に立っていました。
孔明の前に立ちふさがったのは、魏の名将司馬懿、その戦いは六度に及びます。中でも大きなものは五丈原の戦いです。この戦いの際に孔明は病死、蜀軍は撤退、司馬懿は追撃するも孔明の策にはまり、追撃の手をやめています。
その後については蜀の姜維と魏の鄧艾との戦いなどがあり、お互いに決着づかずでしたが、司馬懿の次男司馬昭が権力を握るようになると、蜀の政府内の腐敗や姜維の北伐もあって、蜀の勢力が弱くなります。263年魏が鄧艾、鍾会を始めとして大規模に蜀に攻め入ります。姜維が剣閣にて、魏軍を足止めしておくすきに、鄧艾が間道より抜け出し、蜀の都成都へと攻め入ります。成都はあっさり降伏、蜀は滅びます。
265年魏は司馬昭の子、司馬炎が継ぎ魏皇帝曹奐に禅譲を迫り、魏は滅び晋の建国になります。一方呉では孫権の跡取りで内紛が起こり、280年晋の侵攻により呉も滅びます。
こうして三国時代は終わり、晋の時代が始まることになります。
ながったらしく説明しましたが、実はこれでもほんの一部です。諸説あるところがあり、いろいろ史実と物語が混ざって覚えてしまっていたりしているかも知れませんので、その点はご容赦ください。
とにかく登場人物が多い物語です。それでいて、その個性が脚色されていること、前項でも挙げなかった人物にも趙雲や張飛などの人気英雄が沢山います。それが一つの物語に集約されているのが三国志なのです。
三国志と言うと皆さんが知っている三国志は実際の正史とはかなり異なります。正史に関しては陳寿が晋の時代に制作したものであり、(これでも陳寿は蜀の出身者なので、蜀に伝わっている物語が多いのではと言われています。)実際に知っている三国志とは、三国志演義として明の時代に作られた物語になります。
三国志はその登場人物が多いことから主役がいろいろな目線から話があるので、飽きが来ない展開にあります。私は数十冊ある三国志を一気に読み切ってしまいました。
この時代は非常に知に優れた人を登用することが流行り、戦いも大きな進化を遂げています。優秀な指揮官に加え、数々の発明も!その発明の裏にはリーダーの影に軍師が存在しています。人物を挙げたらキリがないくらいいるので、割愛させていただきます。
そしてその家臣達を束ねるリーダーも魅力の一つです。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備を始めとして個性的で異なる正義を掲げるリーダー達、その人物像は当然、今の時代の教科書にもなり得ます。
このようにいろいろな魅力が詰まっているので、今の時代でも十分に楽しめるのが三国志の良いところです。ゲームにしたら面白いのは当たり前だとも言えます。
さて、ここからは私の個人的なおすすめの三国志の人物をピックアップします。まずはこの人物から夏侯惇(かこうとん)と読みます。一体どんな人物なのでしょうか?
夏侯惇は生まれの記載はありません。曹操が董卓に対抗して、兵をあげるとそれに自然に従って数々の戦いに一軍を任されています。その忠誠心と武勲から、多くの人物から慕われていることも伺えます。また、大きな戦いでは、曹操の軍とは別行動を任されることが多いようです。
三国志演義では弓で射抜かれた左目を「この身体は父の精、母の卵、誰ぞにくれてやるものか!」と言い、自ら食べたと言われています。
夏侯惇は唯一、曹操の寝所に出入りが顔パスで認められていたほどの忠臣です。そしてその武骨さ、あとは清廉潔白な性質や行動から多くの信頼を集めていました。しかし彼はおごることなく、自らを律したと言います。今の政治家に聞かせてあげたいですね。
とにかく曹操がこれだけ多くの人材を抱えながらでも、身内での争いが少なかった功績にはこの夏侯惇が大きな役割を担っていたとも言えます。三国志演技では博望坡の戦いで諸葛亮孔明に敗れたことになっていますが、これは夏侯惇が曹操軍の中で大きな役割を担っていた将軍であった証に他なりません。
それでは二人目に参りたいと思います。二人目はこの人物魯粛(ろしゅく)です。魯粛はどのような人物なのでしょうか?
孫策が袁術から兵を借り、そこに加わった周瑜、その周瑜の推挙で魯粛は孫策に仕官します。その際に貯めておいた兵糧を、全て孫策に提供しています。
荊州へ曹操が侵攻し始めた時に、いち早く魯粛は劉備に目をつけます。もし孫権軍と曹操軍が戦うことになったら曹操との戦いに慣れている(負けてばかりでしたが)劉備の力を加えておくことは利になるとの判断です。そして江夏に逃れてきた劉備に使者として会い,孫権と共同して戦線にあたることを提案します。
孫権との共同戦線を張る同盟の使者として、孔明(諸葛亮孔明以下割愛)が魯粛と一緒に孫権の元へ赴きます。演義ではこの同盟の際に孔明が、孫権配下の名立たる弁士を全て論破し、と描かれています。実際のところ私が思うに、その説得は魯粛が担当していたのではと・・・。その後の演義で赤壁の戦いが描かれますが、この話も虚構が多いので、実際は孔明から情報を得ていた魯粛が、周瑜に攻め時を申し立てたのではと考えます。
赤壁の戦い後、荊州を巡って、劉備と孫権が対立します。その間に立たされたのが魯粛!思いっきり両者の板挟みに合います。功績はかなり大きいのに、その後孫権から「お前のやったことは失策だった」と言われてしまいます。まるであのサラリーマンの課長さんのようですね。
私は魯粛の評価はかなり高いです。何故なら、彼が居なかったら曹操の天下統一になってしまっていたから、三国時代が来たのはひとえに劉備と孫権の間をかいがいしく往復し、両勢力の実力者に信頼を得、共同して強者にあたろうという彼なりの大義を貫いたからではと。
このように何故か演義では利用されているように映る魯粛ですが、実は己の意思や大義はもっと他にあって、その為に辛いことも耐えながら孫権を支えた彼には、実は「もっと他の大きなものが見えていたのでは?」と推測するのは私だけでしょうか?ともかく興味深い人物です。
私が考えるに己の大義を貫いて動かなかった人が魯粛ならこの徐庶(じょしょ)はその反対をいく人物であると言えます。次はそんな徐庶をみてみましょう。
彼を一言で言うと「荊州の名士」と言えます。彼がたむろしていた場所には多くの荊州の有能な学者やあの孔明や龐統、などが在籍しています。後漢末期の荊州は比較的都落ちしてきた名門などが住み着くことが多く、彼の家系もまたその一人なのではと。
中央では争乱でしたが、荊州は劉表が来て以来比較的安定していました。そんな荊州に劉備が落ちてきます。劉備は三国志演義では主役級ですが、当時荊州の人士からみたら都落ちしてきた武者みたいに見えていたのではと推測できます。いち早くそんな劉備に目をつけたのが徐庶です。(演義では逆に劉備の目に留まったと描かれていますが、)
徐庶を手に入れることで劉備は名士を取り立てることへの利点が、徐庶は劉備を引き立てることによって、自分を高く売ることを考えていたのではないかと、この双方の利害関係が一致して、両者は意気投合します。
演義では曹操軍を一度破り、曹操が興味を持って程昱と言う幼馴染を使い、母親が危篤なので、都へ帰りなさいと言う計略にはまる徐庶、そして孔明にことづてをして後事を託し、劉備の元を去ったと描かれています。これも賛否両論あるのですが、私は徐庶は曹操が荊州を治める為に、まず地元の名士を登用して、それを重用することによって荊州の人材を登用することに利用されたのではないかと。
徐庶としても、劉備と曹操が戦ったら劉備が負けるのは目に見えていますし、悪い話ではなかったのではと推測します。
徐庶が曹操の陣営に入った時には、正直ほぼ天下の名士は曹操軍団に入っている状態でした。ですから正直演義ではワザと劉備の為に計略を立てないとか、赤壁の戦いで龐統を推挙、龐統と共に曹操軍に計略を立てる為に暗躍している姿が描かれています。でも実際は・・・。
実際はそこまで曹操に評価をされなかった(実際には曹操軍には多士済々で付けこむ隙が無かった)と思われます。
徐庶は転職をして、失敗した野望多きサラリーマンのようです。魯粛が人生で動かなかったとしたら徐庶は自ら動いて、己の大義をかけたタイプであると推測できます。
ではこの人物はどのようなタイプでしょうか?夷陵の戦いで劉備率いる蜀軍を見事に破った陸遜(りくそん)です。これも独自の目線から切り込みます。
陸遜が演義に登場するのは呂蒙が大都督になった頃に、関羽攻略の助言を与えたとして出てきますが、それ以前は実は異民族討伐に大きく貢献していた人物なのです。
孫策が揚州を切り取って、彼は異民族へも容赦なく討伐の兵を出していました。実は孫権に変わってからも異民族の動静に常に気を使わないといけない状態でした。特に孫策は厳しく弾圧したので、異民族には不満が溜まっていました。
ある日陸遜は孫権から意見を求められます。その時に異民族の懐柔と制圧して、軍事力の強化を挙げて、それを孫権から認められて異民族討伐の長に任ぜられています。
異民族制圧が一区切りすると、陸遜は呂蒙の指揮下に入ります。当時やはり検案は「荊州の関羽をどうするか?」ということに他なりません。そこで陸遜は呂蒙にワザと病気になって、大都督は代理として、陸遜がなるからという計略を立てます。
呂蒙に一目置いていた関羽はその知らせと、変わったばかりの陸遜のへりくだった手紙に安心し、曹操軍の居る北へと軍を進めます。そこで背後から奇襲し、呂蒙と陸遜は荊州を得ることになります。
演義では夷陵の戦いが大きく描かれていますが、実は劉備と陸遜の読み合いでもあったのです。陸遜は大将でしたが、これは孫権の独断とも言え、呉の諸将は納得がいきませんでした。それに加えて、しばらく陸遜は戦う素振りすら見せません。魏が虎視眈々と狙っているのを蜀の劉備も呉の諸将も知っています。陸遜の目はそれを見越していました。
実はこの時、呉にとってはかなりピンチだったのです。何故なら夷陵の戦いのさなかに魏が呉に攻め込む用意をしていたからです。さすがに両方から攻め込まれたら、地の理があるとは言えたまったものではありません。孫権が動けなかったのは魏に警戒する必要性があったからです。その為実は夷陵の戦いも負けてはいけないけれども、兵力は出したくないので、寡兵での戦いを得意とする陸遜を司令官にしたのです。
劉備側としてもいたずらに長引くことはマイナスです。当然蜀にも魏のプレッシャーがかかっています。劉備は陸遜が早めに勝負をかけてくると思っていました。しかし動きません。劉備の中に疑心暗鬼が生まれてきます。そうしているうちに隙を作るようになりました。そうはじめは戦を誘うように
しかし時が経つうちにそれが蔓延化し、士気が落ちていきます。陸遜はそのタイミングを見計らって奇襲を仕掛けました。こうして劉備は敗れたのです。しかも局地戦に・・・。
普通は相手を破ったら追います。しかしこの夷陵の戦いに勝つことも必須でしたが、魏が攻めてくることも解っていました。演義で陸遜が孔明の石兵八陣にはまったと描かれていますが、これはあり得ません。それどころか陸遜の元には孔明から書簡が送られていたとの話もあります。
陸遜はその大局観ものみならず、人心掌握術に長けていました。異民族を手なずけたり、荊州の人員を要職で取り立てるように孫権に進言したり、こうして荊州は陸遜により治められることになります。
そんな陸遜も晩年は孫権の後継者争いに巻き込まれます。重臣たちの争いに業を煮やした孫権は各々に恨みの手紙を書き、後継者は末子の孫亮にして、後継者争いを終わりにします。陸遜はその手紙を見て、病気になり没したと言われています。英雄の末路としては非常に残念な死に方です。
のちに呉を支える陸遜の子、陸抗が陸遜の死にざまを孫権に話した時に孫権は自分のしたことを嘆き、謝罪したと言われています。いかに努力して結果を出しても報われないものがそこにはあります。
さて、ピックアップの最後はこの人姜維(きょうい)です。どのような人物だったのでしょうか?その波乱の人生の一部を紹介していきます。
魏の領土である天水に産まれました。そして魏に使えています。孔明の第一次北伐の際に蜀軍を破り、それが孔明の目に留まり、蜀に仕官することになったとあります。
これもある意味孔明が天水などを隴西地区を抑える為に用いた策なのではと思います。それでいて、蜀には人材がいない(特に戦いの上手い人材が居ない)ので、重用されることを見越して、そして孔明に姜維も人生を賭けたのではと思われます。
とにかく戦は上手い方に入る武将だと私は感じています。何故ならば、練度や経験などで劣る蜀の軍勢で強者の魏を何回も破っているのですから
しかし大局観があったかと言えば、それはなかなかあるとは言えません。ですから局地戦では勝っても、結局は出兵して撤退を余儀なくされ、それが蜀の命を縮めることになります。
ともかく良くも悪くもこの姜維が蜀軍の柱でした。魏の名将鄧艾、鍾会、郭淮辺りと互角にやりあえたのは彼だけですから、蜀が滅びる際にも剣閣に籠り鄧艾を諦めさせ、別動隊を率いさせています。しかし役に似合う能力があったのかと言うと疑問があります。後は魏にあっさり漢中を制圧された点など彼の手腕には疑問があるとことです。
蜀の成都が鄧艾により陥落されたことを知ると、鍾会に降り「これが鄧艾なら降りませんでした」と言い鍾会を喜ばせ、野心のあるのを見ると鍾会に独立を促します。鍾会は成都に着くと鄧艾に濡れ衣を着せて逮捕し、洛陽に送ってしまいます。
その当時実権を握っていたのが、司馬懿の子で司馬昭です。司馬昭は鍾会の気持ちを分かっていました。そして蜀征服軍の後詰として、自身でも乗り込んできたのです。この知らせに焦った鍾会は司馬昭側に付きそうな将校を片っ端から逮捕して投獄していきます。しかしこの気持ちを危ぶむ一人に牢屋を破られて、その放たれた将校たちに鍾会、姜維は打ち取られてしまうのです。
姜維の評価はいろいろ割れますが、最後はあっけなく戦死、しかも元蜀の武官の手によってと言われていますから何とも言えないものです。人は役に付いてくると言いますが、戦乱の世の中ではいささか姜維には荷が重すぎたようです。
では三国志を今からでも覚えたいならコレと言うものを紹介します。漫画と小説、それからゲームを紹介しましょう。
三国志演義を簡単に覚えたいならやはり定番はコレです。ポイントは数々の英雄が非常に魅力的に描かれていることです。
横山光輝や吉川英治(後述します)が劉備目線の三国志演義なら、これは曹操目線から描いた三国志です。ただ物語的に最後が描き切れないのが、残念な所!でも面白いです。
本格的に三国志演義を覚えたいならコレです。劉備を主観として描いているので、非常に明の時代に近い感覚ですね。
どちらかといえば独特な脚色が加わっている三国志です。評価が分かれるところですが、一度は読んでみてもいいかも知れません。
呉が好きならこの作品です。特に滅亡まで呉の目線から描いているので、多少脚色が加わっていますが、読みやすいです。
言わずと知れた三国志ゲームの代表格です。筆者はⅠ~Ⅻまでプレイ済みですが、お持ちのハードに合わせたものを選べばいいです。(個人的にはⅩが少し異色ですが、他はほとんど変わりはないです。)
三国志の戦いを忠実に再現しているのがこのゲームの特徴で、特定のキャラを好きになるのは当たり前になります。爽快感と共にまずはキャラから入りたい方にはこれがおすすめ!
このようにいろいろな切り口があります。是非新しい世界を開く機会として読んでみたり、やってみたりしてはいかがでしょうか?
文章が長くなりましたが、正直語りつくせないです。それぐらい三国志の人物は魅力的で中身の濃い話なのです。ピックアップで5人特徴と生き方が違う人物を紹介しましたが、正直それぞれの人物で個別に、一記事書けるぐらいです。(それは今度の機会にまた)三国志をまだ知らない方に少しでも三国志の人物の魅力についてご理解いただければ幸いです。
私は吉川英治の三国志から入り、正史まで読みましたが、正直入口はどこでも良いと思います。これをご覧の方の中から三国志ファンが生まれたらいいですね。
人物像はいろいろあるので、あなたに似ている人が三国志の中で輝いているかも・・。
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局