木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
【生年月日】1936年2月20日(81歳)
【出身地】 千葉県印旛郡(現:佐倉市)
【身長】 178㎝
【血液型】 B型
4人兄弟の末っ子として、長嶋茂雄さんは生まれました。
幼少から、野球に親しみ、その才覚は高校時代より開花しました。
立教大学に進学し、長嶋茂雄さんは5シーズン連続で、リーグベストナインに選ばれるなど大活躍をしました。
当時の野球は、六大学野球が大人気であり、長嶋茂雄さんは大学生ながらにすでにスターとして活躍していました。
1958年に読売ジャイアンツに入団し、1年目からその頭角を現しました。
翌年に入団した、王貞治さんの活躍もあり、日本野球界破られることのないと言われている、V9達成に貢献しました。
長嶋茂雄さんは、1974年に引退を発表後、翌年から監督として読売ジャイアンツを引っ張っていく存在となりました。
1992年10月、読売ジャイアンツの監督から退いていた長嶋茂雄さんでしたが、翌年から監督に復帰することを発表しました。
最初の仕事は、当時星稜高校3年生だった、松井秀喜さんの獲得でした。
同年11月に行われたドラフト会議で、長嶋茂雄さんは見事に交渉権を獲得しました。
松井秀喜さんは、大の阪神タイガースのファンであったため、阪神入りを熱望していました。
しかし、長嶋茂雄さんが監督就任の会見時に、記者に松井秀喜さんについて聞かれたところ、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えました。この放送を見ていた、松井秀喜さんと父親は大いに喜び、読売ジャイアンツへの入団を決めたそうです。
松井秀喜さんの心を動かした名言です。この名言がなければ、その後の松井秀喜さんの活躍はなかったかもしれません。
1974年10月、長嶋茂雄さんは引退を発表しました。
V10が出来なかったことや、自身の成績などが理由と言われています。
長嶋茂雄さんの引退は、1974年の十大ニュース第4位に選ばれるほど、スポーツのみならず、多くの人々に衝撃を与えたニュースでした。
1974年10月14日、長嶋茂雄さんの引退試合とセレモニーが行われました。
引退セレモニーで長嶋茂雄さんは、「我が巨人軍は永久に不滅です」といったスピーチは今も語り継がれる、名言です。
その後、長嶋茂雄さんが背負ってきた背番号3は、永久欠番となりました。
1975年に読売ジャイアンツに入団した定岡正二選手
高卒ルーキーとして、鳴り物入りで入ってきた定岡選手を、当時監督として読売ジャイアンツにいた長嶋茂雄さんが、気遣うべく語った名言「初めてか?洋服着るの?」です。
スーツやプロのユニフォームを着ることが初めてだろう?というニュアンスだったのだと思われますが、洋服が初めてなんて、江戸時代じゃないんだから・・・
60歳になった1996年
宮崎でのキャンプ中だった、長嶋茂雄さん
報道陣や読売ジャイアンツ側が用意したバースデーケーキを前にして、思わず出た名言「初めての還暦でございまして」です。
誰もが初めて還暦を迎えるんですよ、と思わず言いたくなってしまう名言でした。
日本テレビアナウンサーとして、活躍していた徳光和夫さん
長嶋茂雄さんとは、現役時代から監督、そして引退後も公私共に付き合いのある徳光さんですが、ある日、長嶋茂雄さんが徳光さんに放った名言「どなた様でしたっけ?」
この発言で、徳光さんは寝込んでしまったという逸話があります。
爆笑問題のラジオでも、この名言が取り上げられ、話題となりました。
エジソンの有名な言葉「失敗は成功の母」を、長嶋茂雄さん流に言った名言「失敗は成功のマザー」
マザーを英語にしただけなのに、長嶋茂雄さんらしさが出ている名言です。
長嶋茂雄さんの名言は、数えきれないほどあるため、ここでは一紹介しきれないので、YouTubeに投稿されている、名言集を3つご紹介します。
選手・監督として、多大な功績を残してきた長嶋茂雄さん
誰からも愛されるその性格は、人々を喜ばせようといつも熱心に話を聞いてくれる人物だそうです。
一生懸命だからこそ、数々の名言が生まれたのでしょうね。
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