木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
【本名】 丸山臣吾(まるやましんご)
【生年月日】 1935年5月15日(82歳)
【出身地】 長崎県長崎市
【所属事務所】 オフィスミワ
5人兄弟の次男として、美輪明宏さんは長崎市内で生まれました。
10歳の時、長崎に原爆が落とされました。美輪明宏さんは無事でしたが、その時の惨状は今でも忘れないほどショックな出来事でした。
美輪明宏さんは、15歳の時に歌手を目指して上京します。
国立音楽高等学校(現在の国立音楽大学付属高等学校)に進学しますが、家業の倒産がで、中退を余儀なくされました。
進駐軍のキャプを廻り、ジャズを歌う生活をしていましたが、銀座にあるシャンソン喫茶『銀巴里』の美少年募集がきっかけで、専属歌手として契約します。
当時は『丸山明宏』としてデビューし、国籍・年齢・性別不詳という肩書で売り出しました。
【本名】 平岡公威(ひらおかきみたけ)
【生年月日】 1925年1月14日
【出身地】 東京都新宿区
父親は高級官僚、母親の実家は有名漢学者というエリート家庭に、三島由紀夫は長男として生まれました。
祖母・夏子は、三島由紀夫が生まれるととても可愛がりましたが、その愛情は周りからは少し異常と思われるほどでした。
外は危ないという理由で、ずっと家で過ごさせ、おままごとや折り紙を折るなど少女のような遊びをさせられました。
これらのことがあり、三島由紀夫は強くたくましい、男性像に憧れを抱くようになりました。
外で遊ぶことができない三島由紀夫は、家で本を読む生活をしていました。
その影響もあってか、学習院中等科にいたころ作成した詞は、あまりの完成度の高さから、教師たちから盗作ではないかと疑われるほどの出来だったそうです。
学習院高等科に進学した三島由紀夫は、16歳で書き上げた『花ざかりの森』で作家デビューします。
三島由紀夫が抱いていた永遠の憧れを観念的に描いた作品で、文芸会でも高い評価を得ました。
美輪明宏さんと、三島由紀夫さんの出会いは、美輪明宏さんが所属していたシャンソン喫茶でした。
美輪明宏さんは、当時のことをテレビのインタビューで答えています。
昭和26年くらいですかね、私がちょうど音楽学校に行っていて、アルバイトで銀座の喫茶店…2階がクラブになってる所でね、そこでお会いしました。
私、どっちかっていうと反権力ですから、権力をかさにきていろいろ言う人嫌いですから、「ふん、何が三島由紀夫だ」なんてね、新進作家だなんて行く必要ないってね。で6回くらい呼ばれたの。
7回目くらいでマスターが、「もうとにかくおこずかいあげるから、お願いだから行ってくれ」って言ってきて、それでいったんです。「まあ、座れ」って言われて座って、「何か飲むか」って言われて、「芸者じゃないから結構です」って言ったんですよ。で、「かわいくないな」って言われて、「ええ綺麗だからかわいくなくていいんです」って言ったんですよ。
しばらくしてから、「これでよろしいですか?」ってパッて席をたったんですよ。それが逆に、面白いやつだな、ってなったんですよ。
運命的な出会いをした、美輪明宏さんと三島由紀夫
その後、三島由紀夫は舞台『黒蜥蜴』の脚本を担当し、主演に美輪明宏さんを指名しました。
美輪明宏さんは、何度か断ったそうですが、最後には口説き落とされ、主演を演じました。
三島由紀夫が、29歳の時に発表した『潮騒』
ふたりの若者を主人公にした同作品は、5度映画化されました。
吉永小百合さんや山口百恵さんなどが主演を務め、人気作品となりました。
三島由紀夫が、31歳の時に発表した『金閣寺』
金閣寺の美しさに魅了され、苦悩する若者を描いた本作品は、当時のベストワンと称されました。『戦後文学の金字塔』ともたたえられ、三島由紀夫の最高傑作と言われています。
美輪明宏さんと三島由紀夫の関係は、その後も喫茶店を通して続いていきます。
ある日、美輪明宏さんは、三島由紀夫の細い身体のことを揶揄したところ、突然怒り出し三島由紀夫はそのまま帰ってしまったそうです。それきり、音信不通になってしまいました。
病弱で線の細かった身体に、コンプレックスを抱いていた三島由紀夫は、触れられたくないことを言われ、憤慨してしまったようです。
しかし、三島由紀夫は美輪明宏さんの言葉があって、体を鍛えることに専念します。そのため、美輪明宏さんとの交流を絶っていたことが、後になって判明しました。
作家活動を続けながら、三島由紀夫は脚本家など幅広い活動をしていきます。
36歳で発表した短編『憂国』は、自身で映画監督・主演を務め映画化もされました。
三島由紀夫は発売当時、「私のすべてがこめられている」と語っていました。
38歳の時には、写真集『薔薇の刑』を発売します。
ボクシングや武道など、数多くのスポーツで身体を鍛えたおかげで、三島由紀夫は筋肉質の身体を手に入れていました。
1970年11月25日、三島由紀夫は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の幹部を人質に取り、立てこもりました。
ベランダに立ち、自身の考えを訴えますが、報道陣のヘリコプターや野次のせいで、三島由紀夫の訴えが届くことはありませんでした。
三島由紀夫は、30分の演説を予定していましたが、10分たらずで切り上げてしまい、自決の道を選びました。
享年45歳、数多くの名作を残してきた奇才でしたが、自らその生涯を閉じました。
<美輪明宏さんインタビュー>
なぜ三島さんなのかって、三島さんだけでなくてね、本物を求める時代になったんですよ。
終戦後、66箇所も絨毯爆撃でやられて、とにかくみんな着る物も住む所も食べるものもない。
そうしたらね、礼節とかね、教養とかね、知性とか、そんなこと言ってられなかった。みんなケダモノだったんですよ。
そしてやっと戦後60年になって、やっと気がついてきた。大切なものを忘れてた。
そういう日本が世界に誇る本物。かつてジャポニズムっていって世界に尊敬されてた時代ですよね。
明治・大正・昭和初期までのそれが日本にあるんですよ。それを、大衆のほうが先回りして欲しがってるんですよ。それがとりもなおさず、三島由紀夫であり、寺山修司であり、ずーっとブームになってきているんですよ。
運命のいたずらで出会った、美輪明宏さんと三島由紀夫
戦後動乱の中、三島由紀夫は自分の信念を貫き、生き急ぎました。
彼らの出会いから別れの物語は、映画や小説にも勝る、壮絶な物語でした。
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