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2023/12/28
大今里
2017/11/04 更新
「死亡遊戯」の入場曲にのり、拳をグルングルンと振り回し、相手を挑発しながらリングに上がり続けた世界一諦めの悪い男、浪速のジョーこと辰吉丈一郎。今回は辰吉丈一郎の心を揺さぶる名言をいくつかご紹介し、その名言の真意に迫ってみたいと思います!
幼少期より父親からボクシングを徹底的に叩き込まれ、紆余曲折ありながらも世界チャンピオンまで上り詰めた辰吉丈一郎。
何度倒されてもゾンビのように立ち上がり、フラフラになりながらも決して最後まで諦めずに力の限り立ち向かう姿に共感したファンも多いはずです。
貧しい環境に育てられ、愚痴も言わずに黙々と父親と練習に励み、親子で掴みとったチャンピオンベルト。
そんな辰吉丈一郎だからこそ残してきた名言には重みがあり、考えさせられ、心揺さぶられるのではないでしょうか?
辰吉丈一郎(たつよし じょういちろう)
生年月日:1970年5月15日生まれ
出身地:岡山県倉敷市
身長:164cm
血液型:B
階級:バンタム級
スタイル:右ボクサーファイター
獲得タイトル
全日本社会人選手権アマチュアバンタム級優勝
日本バンタム級王者
第18代WBC世界バンタム級王者
WBC世界バンタム級暫定王者
第24代WBC世界バンタム級王者
teitterなどのSNSを通じ、名言を日々残しています。
岡山県倉敷市で生まれた辰吉丈一郎ですが、辰吉が1歳前後で母親は家を出ていき、父の粂二氏に育てられることになります。
辰吉丈一郎がボクシングを始めたのはそんな粂二氏の影響が大きいと言います。
粂二氏は大のボクシングファンで、辰吉の「じょういちろう」も「あしたのジョー」からつけられたそうです。
粂二氏は辰吉丈一郎のために、賃金が安くてもとにかく早い時間に終わる仕事を選んだとされ、結果的にとても貧しい生活だったとされます。
辰吉丈一郎とのプロボクサーへの二人三脚は5歳の頃からはじまりました。
二人のジムは住んでいた県営住宅の中庭で、サンドバッグを吊るし、拾ってきたバーベルを置き、中学を卒業するまでの約10年間、休みなくトレーニングを積んだそうです。
中学卒業後は大阪に移り大阪帝拳ジムに入門し、更にボクシングに磨きをかけます。
アマチュア時代の辰吉丈一郎は17歳で全日本社会人選手権バンタム級で優勝するなど、通算19戦18勝1敗、18勝全部がKO勝ちという凄まじい強さを見せました。
そして1989年9月、韓国のランカーである崔相勉を相手に2回KO勝ちという衝撃的な内容でプロデビュー戦を飾り、日本プロボクシング界に衝撃を与えることになります。
その後もノンタイトル戦をこなして迎えた4戦目での日本王座初挑戦。
相手は日本バンタム級王座の岡部繁でしたが4回KOで下して初挑戦初王座に輝きます。
1991年9月には初の世界戦に挑みます。
相手はプロで33戦の実績があるWBC世界バンタム級王者のグレグ・リチャードソンでしたが辰吉丈一郎は相手を圧倒し、10回TKO勝利で国内最短新記録で初の世界王者に輝きますが、同時に網膜裂孔という代償を払うことになります。
休養から開けた1992年9月のWBC世界バンタム級暫定王者のブクトル・ラバナレスとの統一戦に再起を賭けましたが9回TKOで敗れプロ初黒星。
それでも立ち上がろうとした辰吉丈一郎は翌年7月、WBC世界バンタム級暫定王座決定戦としてラバナレスとのリターンマッチに挑み、判定勝ちでリベンジに成功しますが、ここでも再び辰吉に悪夢が襲います。
網膜剥離が判明し、引退の危機のさらされます。
それでも辰吉丈一郎は再起を図るために立ち上がります。
手術を成功させ、ノンタイトル戦に勝ち、世界バンタム級王者の薬師寺保栄との統一戦を実現させます。
この統一戦は日本中の注目を集め、瞬間最高視聴率が65%を越えるという異常な盛り上がりをみせました。
試合は1ラウンド目から壮絶な打ち合いになり、辰吉丈一郎の左拳は既に骨折していたことは後のインタビューで語っています。
最終ラウンドでも決着はつかず、辰吉丈一郎は判定で敗れました。
それでも引退の二文字を口にすることが無かった辰吉丈一郎は、1996年3月のWBC世界ジュニアフェザー級王者ダニエル・サラゴサ戦に11回TKO負け、翌1997年4月のリベンジマッチにも12回判定負けを喫します。
それでも這い上がろうとする辰吉丈一郎はWBC世界バンタム級王者のシリモンコン・ナコントンバークビューを7回TKOで破り再び世界王者の座をつかみます。
2度の防衛に成功した辰吉に強敵が待ち受けます。
1998年12月、元WBA世界バンタム級王者のウィラポンと対戦した辰吉でしたが、右ストレートを浴びて失神KOで王座陥落。
翌年、ウィラポンにリベンジマッチを挑みますが、7回TKO負けで王座奪還に失敗、一度は現役引退を表明しますが、その後引退を撤回します。
辰吉丈一郎は当時の心境を名言という形で次のように表現しています。
世界戦で3回続けて負けたのはボクが弱いからであって、ただそれだけのこと。「負けたら引退」というルールは周りがつくったもので、それに従うのは自分としては不本意だ。負けたのだったら、もっと練習して強くなればいいし、次に勝てばいい。
幾度倒されても諦めることなく、フラフラになりながらも立ち上がる、世界一諦めが悪い男と呼ばれることもあるそうですが、そこには辰吉丈一郎なりの哲学的な思いがあるように感じます。
それらを辰吉丈一郎は名言という形で発信しているのではないでしょうか?
それではその名言をいくつかご紹介していきましょう。
人生は一度きり、自分の人生は自分で決めろと背中を押されるような名言ですよね。
他人の意見に左右されることなく、自分の真っ直ぐな気持ちを信じて突き進めと叱咤激励をされているようです。
自ら何かを決断しなければいけない場面で、冷静にさせられる名言です。
物事は共通していて、それをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかでその後が全く違いますよね。
そんな場面で「大丈夫、何とかなる!」とポジティブにさせてくれそうな名言です。
ポジティブに捉えれば前向きになれて、ネガティブに捉えれば後ろ向きな行動に出てしまいます。
是非周囲の人にも伝えたくなるような名言です。
何がおこるかわからない、だから最後まで諦めるな!という名言です。
ドリカムでもありますよね。
10000回ダメでも10001回目は何か変わるかも知れないという歌詞。
諦めたらそこで終わりです。
これも誰かに教えたくなるような名言です。
自分の置かれている状況を冷静に受け止め、生きていることに感謝すること。
自分は恵まれているんだという気持ちは大切ですよね。
自分は最悪だと思ってしまう時点で自分に負けていることになります。
記録よりも記憶に残るボクサー、それが浪速のジョーこと辰吉丈一郎です。
だからこそ、発信する一つ一つの名言には重みがあります。
これからも彼の発する名言に注視していきたいですよね。
最後までお読みいただきありがとうございました
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