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2023/12/28
大今里
【名前】 松井秀喜(まついひでき)
【生年月日】 1974年6月12日(43歳)
【出身地】 石川県能美群(元:能美市)
【身長】 1881㎝
【血液型】 O型
司教である父親の次男として生まれた松井秀喜さん
産まれた時の体重は3,960グラムもありました。3歳で保育園に入りましたが「史上最大の園児」と言われるほど、大柄だったそうです。
阪神タイガース・掛布選手のファンであった松井秀喜さんは、掛布さんにあやかり右打ちだったのを、左打ちに変更しました。
高校は、地元・星稜高校に入学します。入部当初より高く評価され、1年生ながら4番に抜擢されます。
「北陸の怪童」などと恐れられ、出場した夏の甲子園では、ホームランを打たれることを恐れ、敬遠がほとんどでした。
高校3年生の秋に行われた、プロ野球ドラフト会議では、4球団から1巡目指名を受けました。その中から、読売巨人軍が見事に交渉権を獲得し、その後、巨人へと入団します。
背番号『55』は、監督長嶋茂雄さんが、当時の年間本塁打数55本の記録を持っていた王貞治さんを超えてほしいという願いが込められていました。
入団当初より、松井秀喜さんへの期待値が高かったことがうかがえます。
松井秀喜さんは、長嶋さんの期待を胸に、4番バッターとしての役目を果たします。
28歳になった2002年には、年間本塁打数を50本と、記録達成まであと5本と迫りました。
この当時の松井さんは、どんな球もホームランにしてしまうほど、誰にも止められませんでした。
ついたあだ名も『ゴジラ』であり、入場曲もゴジラのテーマ曲でした。
2002年12月、松井秀喜さんは、メジャーリーグの名門チーム『ニューヨーク・ヤンキース』へ入団します。
当時の現地新聞も「ゴジラがブロンクス(ニューヨーク市の地区名)にやってくる」と期待の高さがうかがえます。
背番号も巨人時代の55と決まり、活躍の場をメジャーへと移しました。
2009年のシーズン、ヤンキースはワールドシリーズへと駒を進めます。
松井秀喜さんは、指名打者として出場しましたが、13打数8安打、3本塁打8打点と大活躍をし、チーム9年ぶりとなる世界一に輝きました。
そして、松秀樹さんは日本人初となるワールドシリーズMVPを受賞しました。
直接対決がなかった松井秀喜さんとイチロー選手
しかし、メジャーオールスターで2人はチームメイトとして出場したことがあります。
1学年上のイチロー選手は、松井秀喜さんにメジャーでの様々なアドバイスをしたそうです。
努力してのし上がったイチロー選手と、スタートして輝き続けた松井秀喜さん、対照的な2人ですが、通じ合うものがあったのでしょう。
ここからは、松井秀喜さんの年俸についてご紹介します。
読売巨人軍に、松井秀喜さんは9年間在籍しました。
1993年 年俸720万円
1994年 年俸 1900万円
1995年 年俸6200万円
1996年 年俸8000万円
1997年 1億6000万円
1998年 2億2000万円
1999年 2億8000万円
2000年 3億5000万円
2001年 5億円
2002年 6億1000万円
通算 24億820万円
ニューヨーク・ヤンキースに、松井秀喜さんは6年間所属しました。
2003年 年俸7,000,000$(7億7000万円)
2004年 年俸7,000,000$(7億7000万円)
2005年 年俸7,000,000$(7億7000万円)
2006年 年俸13,000,000$(14億3000万円)
2007年 年俸13,000,000$(14億3000万円)
2008年 年俸13,000,000$(14億3000万円)
2009年 年俸13,000,000$(14億3000万円)
総額 73,000,000$(80億3000万円)
※1$=110円
カリフォルニア州・アナハイムを拠点とするエンゼルスに、松井秀喜さんは1年間所属しました。
カリフォルニア州・オークランドを拠点とするアスレチックスに、松井秀喜さんは1年間所属しました。
フロリダ州・セントピーターズバーグに、松井秀喜さんは1年間所属しました。
松井秀喜さんの年俸は、日米通算約108億2320万円となります!
金額に驚きますが、それだけ松井さんが活躍したことがわかります。
また、松井さんはメジャーリーグで通算10年活躍したので、メジャーリーグから年金がはいるようになっています。
現在はアメリカ・ニューヨークに住んでいるそうです。
松井秀喜さんの活躍を、年俸と共にご覧いただきました。
改めて、松井さんの凄さを感じていただけましたでしょうか。
今後、松井さん以上に活躍する選手が出てくるか、期待が高まります!
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