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    人魚喰い比丘尼は実在した?800歳まで生きた伝説やその子孫とは..

    出家した女性のことを比丘尼と言いますが、かつて日本では800歳まで生きた伝説の比丘尼がいたと言われています。なぜ800歳まで生きることができたのか?その子孫はいるのか?など、比丘尼について徹底的に調査しました。衝撃的な理由で不老長寿を手に入れたのです。

    比丘尼とは

    比丘尼(びくに)とは、出家をして戒を受けた女性です。仏教教団の正規の女性出家者で、尼僧とも言われています。サンスクリット語やパーリ語の音写語で、原意は「食を乞う女」と言われています。

    一般的には尼僧という意味で使われているのですが、中世、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人や、江戸時代、尼の姿をした下級の売春婦を例える言葉としても使われていました。諸説囁かれていますが、比丘尼の歴史は古く、前述したように「出家をして戒を受けた女性」を意味することが多いです。

    八百比丘尼 800歳

    八百比丘尼(はっぴゃくびくに)とは、その名の通り「800歳まで生きた伝説の尼」です。800歳以上生きていたという諸説もありますが、文献では800歳まで生きたとされており、長寿にも関わらず、容姿は15歳くらいの若い女性に見えたとも言われています。

    新潟県の佐渡島の伝説では、八百比丘尼は、1000年の寿命を手にしたが、200歳の年月を国主に譲り、自分は800歳になって若狭の小浜で死んだと伝えられています。これらの情報は、中世室町時代の記録である「康富記」「臥雲日件録」に記されています。

    八百比丘尼の特徴は、手に椿の花を持っていることで、八百比丘尼がいたとされている北陸から東北地方にかけての沿岸部には、椿がまとまって生い茂っている聖地が点在しています。椿は春の到来を告げる花をされており、椿の繁茂する森は信仰の対象となっていました。

    比丘尼の歴史

    比丘尼について「出家した女性」という紹介をしましたが、日本では瀬戸内寂聴さんの存在が大きく、女性の尼僧のイメージがしやすいかと思います。瀬戸内寂聴さんは、天台宗の尼僧ですが、堅苦しい僧侶の生活とは異なり、禁忌生活もほとんどありません。

    今では一般的になっている尼僧ですが、昔までは「女性が出家するなんて考えられない!」と言われていたほどでした。ここからは比丘尼の歴史を紐解くべく、比丘尼が生まれた時期や由来などについてご紹介します。

    比丘尼の始まり

    かつて、世界中どこにも女性の出家者は存在していませんでした。しかし、釈迦の義母が切願して出家をしたのが比丘尼の始まりと言われています。そこから次第に「女性の僧侶」が浸透していきました。

    比丘尼は世界中で増加をしていき、男性の出家修行僧と共に仏教教団で重要なポストを担い、「男女の差別を設けない仏教の平等主義」を掲げて尽力してきました。現在では戒の授受を中ぜつしたために、比丘尼の教団は消滅したが、大乗仏教を奉ずる中国や台湾、韓国、日本では個人としての比丘尼がそれぞれの場で活躍しています。

    上記の国の中では、特に韓国に比丘尼が多く、比丘と同数を占めると言われています。比丘尼の発祥はインドとされており、そこから時を経て日本へ渡ってきました。

    日本における比丘尼の始まり

    日本における比丘尼の始まりは、善信尼と称した司馬達等の娘が始めと言われています。奈良や平安時代にも尼の存在は認められており、鎌倉時代になると、尼門跡寺ができるなど、尼僧としての地位が確立されていきました。

    一方で、熊野比丘尼に代表されるような、日本各地を渡り歩く比丘尼も登場しました。地獄極楽の絵解きをしながら、誓紙を売り歩いていました。時には「はやり唄」を歌って米や金を乞い歩いたため、歌比丘尼とも言われています。巫女となり祈祷や託宣を生業としている者もいたようです。

    遊女として売春をしていた比丘尼

    前述した熊野比丘尼の中には、自分の身体を売り、米や金を得る「売比丘尼」が登場しました。江戸時代の頃から売比丘尼が確認されています。比丘尼という名前だけではなく、「風呂屋女」「茶屋女」とも言われています。

    川に礎を下ろして船中で休んでいる人を見て、「売色の歌比丘尼はいかが」と言って、美女を乗せた船が港に溢れていました。比丘尼を装って売春をすることはとても不謹慎なのですが、それを黙らせてしまうほど美しい比丘尼達が存在していました。

    出家をすると、断髪をするイメージがありますが、有髪のまま尼にんることもあります。このような実情があったからこそ、各地に売比丘尼の様な身体を使って生活をする比丘尼が現れる様になりました。

    八百比丘尼伝説

    800歳まで生きていたとされる八百比丘尼は、伝説の尼僧として讃えられていますが、数多くの伝説があることが分かりました。800歳まで生きていたこと自体が伝説なのですが、なぜ、長寿でいられたのか?その理由さえも伝説になっているのです。

    また、八百比丘尼は1人だけではなく、日本各地に存在したとも言われており、まさに日本を代表する伝説の尼僧になっています。ここからは八百比丘尼が何故800歳まで生きることができたのか、日本各地に存在していた情報について詳しく解説します。

    日本各地に存在

    八百比丘尼に関しては様々な憶測が飛び交っています。八百比丘尼は1人では無くて全国各地に存在していたという話もあります。中世に熊野比丘尼が絵解きをしながら全国各地を歩き回っていたように、八百比丘尼を名乗る集団があり、その土地で八百比丘尼に関する伝説や布教などをしていたようです。

    そもそも「800歳まで生きれる尼が存在していたのか?」という疑問もありますが、宗教は人それぞれの考え方で成り立つところもあります。つまり、「八百比丘尼は存在していた」と思ったのなら、その人の中では真になるのです。

    特定の地域だけではなく、全国各地で八百比丘尼に関する伝説の話が知れ渡っていることから、前述したように中世の頃に八百比丘尼を名乗って、放浪していた個人、集団がいたことになるでしょう。また、八百比丘尼を名乗っていた集団も「八百比丘尼は存在する」と思っていたことに違いありません。

    八百比丘尼が長生きできた理由

    八百比丘尼は800歳まで生きた尼として有名ですが、「なぜ、800歳まで生きれたのか?」疑問に感じる方も多いでしょう。御伽話の世界なら納得が出来ますが、仏教という確立された世界で、辻褄の合わないストーリーが存在してしまったら、仏教の価値を下げることになります。

    しかし、八百比丘尼が800歳まで生きることができた理由が明らかになったのです。八百比丘尼は「人魚の肉」を食したことによって、800歳という寿命を手に入れたと言われています。800歳にしてもなお、容姿は15歳くらいの若い女性に見えたそうです。

    八百比丘尼が800歳まで生きれた理由については諸説あります。他にも丸穴の貝(アワビ)を食べから...とも言われています。新潟県の佐渡島に伝わる話では、八百比丘尼は人魚の肉を食べて1000年の寿命を得たが、200歳を国主に譲り、自分は800歳になったときに死んだと伝えられています。

    人魚の肉を食べると不老長寿になれる

    「人魚の肉を食べると長寿になれるのか?」という疑問が生じると思うが、実は昔から日本では「人魚の肉が不老長寿の薬になる」という俗信があります。人魚は上半身が人間で、下半身からは魚という形なのですが、これは西洋からの導入であり、世界各国で人魚に対する科学的見解は変わっています。

    アジア圏で語り継がれている浪奸物語では、漁夫が海上で美女に誘われて、竜宮城へ行くことになった。散々遊んで帰るときに、食すると不老長寿になれる土産(人魚)をもらった。困った漁夫は隠していたが、娘がそれを食べてしまい、300歳まで生きた。

    この様に西洋だけではなく、アジア圏でも「人魚の肉を食べると不良長寿になれる」という言い伝えがありました。また、日本でも619年に人魚の存在が確認されており、日本書紀にも記されています。

    八百比丘尼伝説①知らずに食べた肉が人魚の肉だった

    八百比丘尼が人魚の肉を食べたことによって、800歳まで生きれたのですが、八百比丘尼になる経緯についても様々な憶測が流れています。その中でも有力とされている情報があったのでご紹介します。

    ある宴会に招かれた客の1人が、調理場の様子をそっと覗いた。すると、そこでは人の形をした頭と腕がついた魚が切り刻まれているところでした。驚いて他の客にも話し、「食べずに持ち帰って捨てよう!」ということになりました。

    しかし、その中の1人が捨てるのを忘れてしまい、娘が何も知らずに人魚の肉を食べてしまうのでした。その娘こそ、後に八百比丘尼と呼ばれることになり、800年も生き続け、美しい容姿から「白比丘尼」となりました。これが八百比丘尼の伝説が生まれた経緯です。

    八百比丘尼の伝説②生涯で7度の結婚

    八百比丘尼の最期は福井県小浜市の空印寺だったとされています。八百比丘尼の伝説は福井県小浜市を中心として、全国各地に広がっていることがわかりました。特に石川県、埼玉県、岐阜県、愛知県に八百比丘尼に関する情報が多く、中世に始まり、江戸時代に全国へと広まったようです。

    空印寺の岸本住職によると、八百比丘尼は800年の人生の中で7回も結婚していたそうです。歳はとっても見た目は変わらない八百比丘尼のもとには、多くの男性が集まってきたと言われています。

    朝鮮の物語では「人魚の肉を食べると、結婚どころか子供もできない」という言い伝えがありましたが、八百比丘尼は人魚の肉を食べても恋愛をしていたということになるので、やはり国や地域によって捉え方が違ってくるのでしょう。

    八百比丘尼の伝説③88歳の長者に子供を授けた

    鳥取県米子市彦名町にある粟島神社は、八百比丘尼が800歳になるまで住んでいたとされる「静の岩屋」がある場所です。昔、栗島村に住む88歳の長者に初めて子供が授かり、子孫が繁栄したことから「八十八の子」という意味で「米子」という地名が付けられました。

    この長者に子供ができたのは、800歳まで生きた八百比丘尼の力があったと言われており、今でも健康寿命を祈りに来る人も少なくないと言います。

    八百比丘尼の伝説④タイムトラベラー説

    八百比丘尼の最期は若狭の小浜に長く滞在したという伝えが残されています。周囲の人間たちが10年、20年、30年と若い娘のままでいる姿を見てきたからこそ、伝説となり、周囲に神社などが建てられていったのでしょう。

    また、あまりにも八百比丘尼が日本人離れをした美しさだったことから、異国人説、渡来人説、タイムトラベラー説なども浮上しており、様々な仮説や憶測が飛び交っています。日本では八百比丘尼を題材とした小説やドラマも放送されています。

    八百比丘尼の子孫が存在している?

    八百比丘尼は伝説の人物として語り継がれているのですが、新潟県の佐渡島では子孫がいるとされています。八百比丘尼は結婚をしたが子供には恵まれなかったという説もありますが、一部では隠し子が存在していたという噂も広がっています。

    また、八百比丘尼の子孫は秦一族ではないか?とも噂されています。百済から日本に帰化した秦氏が佐渡島に住み着いて、そこから子孫を繁栄させた説もあります。真意は定かではありませんが、八百比丘尼の子孫が存在している噂は広まっています。

    比丘尼の役割とは?

    これまで伝説となっている八百比丘尼についてご紹介しましたが、生きていることが伝説となっており、尼としての活動については触れられていませんでした。比丘尼は説法を説き、指導的立場として周囲の人へ救済の言葉を投げかけたり、布教を行っています。

    比丘尼になる方法

    比丘尼になるためには、18歳になってから式叉摩那(しきしゃまな)として2年間過ごす必要があります。つまり最短でも20歳になっていないと比丘尼になる権利が得られないのです。その後、305ヶ条からなる律を受けることによって、晴れて比丘尼になることができます。

    つまり、年齢が20歳になっても40歳になっても式叉摩那として2年間過ごさなければ、比丘尼にはなれないのです。しかし、例外もあります。20歳以下であっても既婚者(未亡人)であれば、比丘尼になることが可能です。その場合の最低年齢は12歳になります。

    これは、インドにおける婚姻に関する習慣のためだと言われています。若くして旦那を亡くしてしまった女性は、奴隷の様な扱いを受けてしまう悪しき風習が残っているので、齢若くして未亡人となるなら、比丘尼で救われた方が良いという考えなのでしょう。

    比丘尼と比丘の比較 戒律 八敬法

    男性僧侶のことを「比丘」、出家した女性のことを「比丘尼」と言います。250の戒律を守る比丘に比べて、比丘尼は348にものぼる戒律を守らなくてはいけません。また、比丘に対して劣位に置く八敬法という制度も課せられているのです。

    1.出家後百年経ていようと、比丘には誰であれ礼拝すること
    2.比丘を罵ったりしてはいけない
    3.比丘の罪・過失をみても、それを指摘したり告発したりしてはならない
    4.式叉摩那として2年間過ごせば具足戒を受けても良い

    5.僧残罪を犯した場合、比丘比丘尼の両僧枷で懺悔すること
    6.半月毎に比丘のもとにて、教誡を受けること
    7.比丘のいないもとで安居してはならない
    8.安居が終われば比丘のもとで自恣を行うこと

    比丘尼という地名について

    出家した女性を意味する「比丘尼」という言葉ですが、日本の各地方で、比丘尼という名前の地名が多数存在していることが分かりました。ここからは比丘尼という名前の地名を紹介すると共に、尼僧との関係についてご紹介します。

    東京都練馬区:比丘尼交差点

    東京都練馬区三原台には、比丘尼交差点や比丘尼橋があります。かつて、この近くにある真福寺には、美人の比丘尼が住んでおり、その比丘尼の面倒をみていた善兵衛という名主が恋仲になった。

    しかし、その恋は成就せず、傷心した比丘尼が白子川に架かる橋から身を投げ出してしまったのです。そこから橋が比丘尼橋と呼ばれる様になったそうです。比丘尼橋の隣になる交差点だから、比丘尼交差点という名前が付けられたのかも知れません。

    また、浮世絵師である歌川広重が「名所江戸百景」の1つとして「びくにばし」を描いたことでも注目を集めました。現在は高速道路になっていることから比丘尼橋は無くなっています。

    東京都練馬区:びくに公園

    同じく東京都練馬区に「びくに公園」があります。この公園はテニスコートや多目的広場など、スポーツ施設が充実している公園です。公園の外側は遊歩道が整備されているので、散歩やジョギングなどを楽しむ人が多いです。

    びくに公園の名前の由来は不明ですが、この周辺は、比丘尼による売春宿がたくさんあったという噂もあるので、その売春婦たちを表すように「びくに」という名前を付けられたのかも知れません。

    800年生きた比丘尼は人魚を喰らい子孫を繁栄させていた

    800年も生き続けた伝説の比丘尼は八百比丘尼と呼ばれており、その不老長寿を手に入れて理由は、人魚の肉を食べたと伝えられていることが分かりました。諸説ありますが、800年を生きる中で、結婚を繰り返し、子孫を繁栄させて、新潟県の佐渡島には八百比丘尼の子孫がいると言われています。

    教育的な立場で人々を救うイメージがある比丘尼ですが、中には自分の身体を売って生きる売春婦もいたようです。実際に東京都のある地域では、その昔、売春宿が乱雑していた場所にそのまま「比丘尼」という名前を付けていました。

    八百比丘尼が本当に存在したのか?それは不明ですが、日本各地で八百比丘尼の伝説が語り継がれて、お寺や石像などが建てられるほど愛されているようです。観光地にもなっているようなので、気になった方は是非、足を運んでみてください。

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