【母のお陰!?】坂本勇人、母のエピソードと理想の結婚について語る
2015/10/09
セラフィム
坂本 勇人
生年月日: 1988年12月14日(26歳)
生まれ: 兵庫県伊丹市
身長: 186 cm
所属球団:読売ジャイアンツ(2007から)
坂本勇人は、小学校1年から野球を初め、当初はショートとピッチャーを兼任していた。
高校野球では、1つの大会で16打数13安打で打率.813、4本塁打という驚くべき成績を残し、坂本勇人がプロ野球のスカウトから注目される1つの要素となっています。
プロに入ってから、坂本勇人の母の体調が悪化することが多く、2軍の試合中などにも母を心配している姿が多く見受けられました。
プロ野球選手・坂本勇人だけではなく、甘いマスクで日本中の女性から大人気である。
2015年現在、坂本勇人は、読売巨人軍のキャプテンを務めあげています。
坂本勇人の母親はプロ1年目の時、病気で亡くなっています。
ドラフト会議の数週間前に余命数ヶ月と診断されたようです。
しかし父親は息子がドラフト指名される可能性があるので、心配させないように母親には言わなかったそうです。
そして入団1年目に母親が観戦に訪れた試合で2軍戦ながらも見事に特大ホームランを打ちました。
母親はさぞや嬉しかったことでしょう。
このホームランから約1か月あとに、坂本勇人の母は他界されたそうです。
プロになって、ホームランを打つ姿を見せられたのは最高の親孝行となりました。
母は、坂本勇人のプロ入りに最高の笑顔を見せたそうです。
坂本勇人が5歳の頃、兄がグラブを新調した時、兄のお古を母は彼に与えましたが兄は右利きで坂本勇人は左利きでした。
坂本勇人は兄のお下がりをもらえたことが嬉しくて仕方がなく左利きなのを忘れていました。
それが原因で左投げから右投げに転向したのです。
左利きだった坂本勇人に右利きのグラブを与えた母の存在がありました。
母のこの行動が無ければ、坂本勇人は、現在のような華麗な右投げ右打ちのプレーは無かったでしょう。
ちょっとしたことかもしれませんが、少年時代の母の行動が現在の坂本勇人の原点になっているのかもしれません。
母親はリトルリーグに通う息子達のために12~13人入れるワンボックスカーで子供達の送迎をしていました。
高価な車内には新聞紙もひかず泥だらけの子供たちでいっぱいだったそうです。
車内が汚れようともかまわず、母親は喜んで子供たちを送迎していました。
息子の為に、一生懸命だった坂本勇人の母の姿が想像できますね。
母の送迎があったから、野球に専念できる環境があったようです。
坂本勇人の父親はアメリカに牧場を持っていてファミレスなどに食肉を卸す仕事をされていたようです。
その仕事の関係で日本にいないことが多くありました。
そのせいもあって母親が父親の役目も努めていたようです。
母が亡くなったことで、ショックを受けていた坂本勇人ですが、父親の存在は大きかったようです。
坂本勇人にとって、母の死去後しばらくは野球に打ち込むことはできなかったようですが、父親の励ましが大きく影響して、乗り越えることができたようです。
母の死にショックを受けたのは、坂本勇人だけではなく父も同じであり、母の死後は、二人三脚で頑張ってきました。
元々左利きでペンや箸を持つ手は今でも左手。右利きの兄のグローブを使って野球を始めたことから右投げになった。初めは右打ちだったが、指導者の勧めで小学4年生の時に両打ちに転向した。しかし、当時坂本は田中将大とレフト側の校舎目掛け飛距離を競っていたが、左打ちでは田中に敵わなかったため6年から再び右打ち一本になった。
当時、バッテリーを組んでいた田中と坂本勇人、現在はメジャーリーガーと、巨人のキャプテンという立ち位置であり、2人とも野球で超一流の選手として活躍しています!
坂本勇人にとっては、田中の存在は大きかったようです。
野球界でも人気の巨人軍でキャプテンを務めるには、周りからの相当な信頼と実力が必要です。
坂本勇人がキャプテンになるまでには、母の支えが必要でした。
少年時代に野球をするために送り迎えしてくれた母、食事も栄養バランスを考えてくれた母がいたから、現在の坂本勇人があります。
坂本勇人と母には感動のエピソードがありました!
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