【画像あり】黒柳徹子さん、昔はめちゃくちゃ美人だった!?【昔】
2016/08/15
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2015/10/09 更新
みんな知っているマルチタレントの黒柳徹子。「徹子の部屋」や「世界・不思議発見!」の黒柳徹子は知っていても、その昔、黒柳徹子がどんな女性だったのか知らない人も多いようです。黒柳徹子の昔を知ると納得のあの面白さ!昔から変わらないあの髪型の秘密も教えちゃいます。
黒柳徹子
特徴的なヘアスタイルと芸人殺しとまで言われる天然っぷりで親しまれている黒柳徹子。黒柳徹子の代名詞とも言えるテレビ番組「徹子の部屋」のことや、そこで生まれたあらゆるエピソードは知っていても、黒柳徹子が実際にどういう女性なのか、その昔を知っている人は少ないのではないでしょうか。
黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、1933年8月9日 - )は、日本の女優、タレント、声優、司会者、エッセイスト、ユニセフ親善大使、平和運動家である。血液型はA型。
父は音楽家で、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口)、母は声楽家でエッセイストの黒柳朝(旧姓門山)。弟はヴァイオリニストの黒柳紀明、妹はバレリーナでエッセイストの黒柳眞理、伯父には日本ニュースのニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた田口修治がいる。
黒柳徹子は女優だった!
昔、黒柳徹子は女優だったのです。現在の黒柳徹子しか知らなければ女優というイメージはないかもしれません。いろいろ奥が深い黒柳徹子。その昔を探ってみましょう。
その昔、テレビ女優第1号に!
黒柳徹子はテレビが昔、白黒だった時代やカラーの試験放送時代を知っている貴重な女優なのです。カラー放送の試験撮影のため顔の左右を青白に塗り分けて撮影に臨んだり、映像が悪くてキツネのお面を被っているように見えたなんていう、今では考えられないような昔のエピソードを持っているのです。
NHK放送劇団、文学座研究所を経て女優デビュー。テレビ女優の第一号である。また、テレビ誕生と同時に生まれた日本初のテレビタレントにして、テレビ創生期からテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けている唯一のタレントでもある。
昔から伝説を生み出してきた「徹子の部屋」
1976年に放送を開始した「徹子の部屋」は黒柳徹子がパーソナリティを務める番組。昔から現在に至るまで黒柳徹子が変わることなくホスト役を務めているので、2011年にはギネス記録認定を受けました。
1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組「徹子の部屋」が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された
2006年には黒柳と「徹子の部屋」が第54回菊池寛賞を受賞した。受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対してである。
久米宏&黒柳徹子の名コンビ
1978年に始まった音楽番組「ザ・ベストテン」。芸能界の昔を知らない人でも番組名やエピソードについて聞いたことがある、金字塔的な音楽番組です。今では考えられないような演出や体当たり企画、海外ロケもバンバン行い、テレビ界が元気だった昔ならではの番組でした。
1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSの音楽番組「ザ・ベストテン」が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。
黒柳徹子節炸裂!「世界・ふしぎ発見!」
1986年4月から放送を開始したこちらも超ご長寿番組「世界・ふしぎ発見!」。黒柳徹子は放送初回から唯一レギュラーとして参加しています。勉強熱心で博識な黒柳徹子はあまりに正解率が高いので、番組のなかで「日本で唯一黒船を見た女」とあだ名されました。そんなに昔から生きていても不思議じゃない?
番組では、歴史関連の知識の豊富さから「日本で唯一黒船を見た女」とあだ名されたことがある。後年、『徹子の部屋』で、ゴリエから「黒柳さんはペリーの黒船来航の際に通訳を買って出たというのは本当ですか?」と質問された時にも、黒柳はこれを否定せず、自分でも黒船を見たような気がしているとユーモラスに答えた
クイズの答えに必要な知識を得るため、図書館にも熱心に通っていることで知られる。番組の問題製作者が図書館で参考にした資料(本)を本棚に戻したところ、直後に黒柳がその本に手を伸ばした、というエピソードもある。
こちらが昔の黒柳徹子
とても明るくて可愛らしい笑い声がしそうな、昔の黒柳徹子。もうこの頃からヘアスタイルは同じだったのですね、、、。なぜ昔からこのヘアスタイルを貫いているかご存知ですか?
その形状から「タマネギ頭」と称される髪型もよく知られているが、大好きなマリー・アントワネットの髪型をモデルにしていると話している。なお、ヘアースタイルの考案者は当時ニューヨークで活躍中だった須賀勇介である。
芸能界七不思議の1つと言われるこの髪型については理由があり、毎日髪形を変えると、視聴者の関心が黒柳の髪に集中してしまってゲストの方へ行かない、また襟足が出るので、黒柳の斜め後ろからの画像になっても「ふんふん」と頷く時に髪ばっかり揺れているという絵にならず、首が見えるので少しは人間味がでる、あるいは和装でも洋装でもちょっとアレンジすれば済むなどの理由で固定していると言う。
昔から変わらないあのヘアスタイルに考え抜かれたそんな理由があったとは。
髪の毛を小物入れとして活用している。『徹子の部屋』で青山テルマが出演した時に髪の毛の中から飴玉を取り出し、その際に「いつもはお煎餅も入れているんですけど、今日はないわ」とも発言している。また、黒柳に近い関係者によると、黒柳はかなり前から髪の毛をポケットとして使っており、海外に行く時はパスポートや大事な書類も髪の毛の中に入れることもあるという
黒柳徹子の昔を知るなら自伝「窓ぎわのトットちゃん」
これまでに累計800万部を発行した黒柳徹子の自伝「窓ぎわのトットちゃん」。子どもの頃、注意欠陥・多動性障害・学習障害と推測されたので小学校1年生の時にトモエ学園に転校した黒柳徹子。その時のエピソードを綴ったものです。黒柳徹子という大物マルチタレントの昔について知りたければ読むべき本!
『窓ぎわのトットちゃん』(まどぎわのトットちゃん)は、女優・タレントの黒柳徹子による自伝的物語。1981年に講談社から出版された。第5回路傍の石文学賞受賞作。
東京都目黒区自由が丘にかつて存在し、著者の黒柳が通学したトモエ学園を舞台に、黒柳自身の小学生時代についてはもちろん、トモエ学園に於けるユニークな教育方法(リトミック、電車を利用した教室など)や、校長である小林宗作の人柄が描かれ、また黒柳の級友も全員実名で、その中でも初恋の相手に物理学者の山内泰二も登場する、完全なノンフィクション。
世界35ヶ国で翻訳され、1985年にポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」を受賞。中国では約640万部を発行した。この本の印税により、「社会福祉法人トット基金」を設立。
黒柳徹子の昔を知ると理解できてくる、その何もかも超越した佇まい。これだけすごい昔の経歴があれば納得できます。「徹子の部屋」は観たことあるけど「窓ぎわのトットちゃん」はまだ読んだことのないというあなた、試しに読んでみませんか?黒柳徹子ワールドにハマってしまうかもしれません。
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