2018/12/08
fujigasako
羽生結弦
代表国: 日本の旗 日本
生年月日: 1994年12月7日(20歳)[1][2]
出生地: 宮城県の旗 宮城県仙台市泉区[1][2]
身長: 171 cm[3][2]
体重: 56 kg[3]
コーチ: ブライアン・オーサー(2012-)[4]
トレイシー・ウィルソン
元コーチ: 阿部奈々美(-2012)[5][6][7]
都築章一郎[7]、松田達義[8]、関徳武[8]
武者愛[5][6]
山田真実[9]
振付師: ジェフリー・バトル[7]
デヴィッド・ウィルソン[7]
シェイ=リーン・ボーン[7]
宮本賢二
元振付師: 関徳武[8]
阿部奈々美[5]
ナタリア・ベステミアノワ
イゴール・ボブリン
カート・ブラウニング
所属クラブ: 全日本空輸(ANA)[10]
ISU パーソナルベストスコア
羽生結弦選手のプロフィールがわかりました。羽生結弦選手と家族のかかわりや、スケートとの出会いなど、見ていきたいと思います。
羽生結弦のお父さんは中学校の教頭先生。特別なお金持ちというわけではなく、普通の公務員の家庭だったんですね。
お母さんも普通のパート勤めの主婦、ということで、ずっと手作りで羽生結弦選手の衣装をぬっていたんだとか。
羽生結弦選手のご家族、ご両親はどこにでもいるような、ごく普通の家族であり、両親だったのですね。
名前って、いろいろな意味を持っていますが、羽生結弦選手のお父さんも息子にいろいろな思いを込めてつけたのでしょうね。素敵な名前だと思います。
フィギュアスケートはお金がかかるスポーツだといわれています。羽生結弦選手の家庭は決してお金持ちは家族ではなく、一般的な家族でした。なので、お母さんは羽生結弦選手の衣装を手作りで仕上げたり、髪の毛を切ったり、お母さん自身ができることはすべてしていたのでしょうね。すごく立派だと思うし、何より愛情がこもった衣装であると思います。このようなお母さんの存在を知ると、は有結弦選手は本当に家族に愛されていたんだなと感じ取ることができます。素敵な家族ですね。
羽生結弦選手が子供の頃に、姉のさやさんがフィギュア教室に通っていて、羽生選手が興味本位でその体験教室に参加したのがフィギュアスケートを始めるきっかけになったそう。
もしおねえさんがフィギュアスケートを始めていなければ、現在世界で活躍している羽生結弦選手は誕生しなかったのでしょう!
羽生結弦選手がフィギュアスケートを始めるきっかけとなったのがお姉さんだったというのがびっくりでした。何を始めるのにもきっかけというのはありますが、身近なお姉さんの姿を見ていつしか興味を持ったのでしょうね。
スケートをやめたお姉さん。いまでも羽生結弦選手をサポートしているということが、お姉さんの職業でもわかる感じです。いろんなところで家族が見守っているのだと感じました。
フィギュアスケーターの羽生結弦選手が、P&GのWebサイト『マイレピ』内の連載インタビューに登場し、幼少期の思い出を語った。人生の大半をスケートと共に歩んでいる羽生選手だが、小さい頃は「練習以外の時間は思いっきり遊んでいた」と回顧。また、「国語は苦手でした」など、好きだった教科、苦手だった教科についても明かしている。
小さいころからスケートとともに成長してきたと思われつ羽生結弦選手。でも、普通の子供と同じようにたくさん遊んで勉強もして、苦手な科目もあって・・・。どこにでもいるような男の子だったようですね。
https://youtu.be/sevJU36P67s
実は、幼い頃からスケートの実力はすごかった。
小学4年でノービス(ジュニアの下)大会初優勝。
中学1年でノービス選手にも拘わらず、日本男子史上初の全日本ジュニア選手権3位になった。
その後、2008年-2009年、2009-2010年シーズンと全日本ジュニア選手権を2連覇し、世界ジュニア選手権、ジュニアGPで優勝をしている。
中学時代の担任が羽生結弦について話す。
「すでにメダリストになっていましたが、普通の子と同じ。試合で学校を休んだら、その分を取り戻すために、ドリルを買って練習の合間に勉強をしていた。掃除は普段出れない分、来たときはちゃんとやりたいと取り組んでいました」
高校時代の担任もこう話す。
「自学自習ができる子でした。要領がよかったので勉強もできましたよ。人の話を聞き、しっかりと自分の意見を述べる子でした。スケートに集中するために携帯電話はもっていませんでした」
大学は早稲田の通信制を選んで、毎日7時間も勉強しているそうです。
(早稲田の通信制は入学は簡単だけど、卒業は大変のようです。芸能人でも中退した人が多いことでも有名ですね
羽生結弦選手はお姉さんがスケートをやっていたことで自分も始めたそうですが、うけーとにかける情熱は人一倍つよかったのかなと思います。また、スケートと学業の両立もできており立派だと思いました。
順風満帆なスケート人生だったのだが、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。
羽生が練習していたリンク仙台を襲った。
幸い命は助かったものの、電気、水道、ガスなどすべてのライフラインが閉ざされ、家に戻れず、避難所での生活が続いた。
震災でリンクを失い、「こんな状況でスケートをやっていていいのか」と自問自答する日々を過ごした。
その後、小学生と中学生の時にスケートの指導を受けた恩師・都築氏のもとに身を寄せ、スケートの練習を再開させる。
「4月初めに仙台では練習ができないから、神奈川(こちら)で練習させてもらいたいという連絡がありました。精神的にダメージを受け、立ち直るのは大変でした。ご両親が彼を見守り、観察しながら再度フィギュアに立ち向かわせました」(都築氏)
イメージを大事にする羽生は、震災のことがフラッシュバックされ中々、練習に集中することができなかったそうだ。
自著では、震災の時のことを次のように話している。
「こんな地震がおきたんだし、僕はもうしょうがない。こんな苦しい思いをした上に、スケートで苦しい戦いなんて、もうしなくていいよ。普通の高校生に戻って、普通に生活がしたい」
しかし、震災の経験が羽生を大きくしたという。
「ホームリンクが無くなったことにより、チャリティーやエキシビジョンを回り、レベルの高い選手と一緒になり、自分の技量を磨けることができました。約60公演も回りました。その結果、2011年12月の全日本選手権、2012年3月の世界選手権で銅メダルを獲得することができました」(都築氏)
震災があったので、地元の仙台を出た結果、いろんな選手と交流ができ、いろいろ学べ、現在の強さができあがったそうです。
人は一度、辛い経験をし、這い上がってくると強くなるといわれていますが、まさにそのような強さを持った選手のようです。
仙台のリンクで練習中に突然起きた大地震、東日本大震災。自宅崩壊、避難所生活・・・。そんな大変な中、自問自答しながら、スケートに打ち込む羽生結弦選手。ダメージも大きかっただろうに・・・。私も被災地の人間ですが、羽生結弦選手の頑張っている姿を見て、自分も頑張ろうと思いました。きっと、羽生結弦選手が頑張って前向きに進めたのは、家族の支えがあったからなんだろうなと思います。家族の力はすごいなって思うとともに、私たち被災地の人間からはありがとうと伝えたいです。
東日本大震災復興支援ソング・・・花は咲く。に八木県出身の羽生結弦選手ももちろん参加。羽生結弦選手のほかにも参加している有名人はたくさんいますが、この歌声で被災地の皆さんが元気になれたこと、力が湧いてきたことにはかわりありません。
自分も被災者なのに、ありがとう・・・の一言です。
「実は結弦くんは、最初はスケートにはあまり興味がなく、どちらかといえば野球とかみんながやるスポーツのほうに興味があったみたいで、5分も滑ると飽きちゃっていましたね」
「でも、お姉さんが一生懸命練習する姿を見て、だんだん興味が高まっていったみたいです。『姉ちゃんが飛べるなら自分も飛ぶ!』『姉ちゃんができる技なら自分にもできる!』と、お姉さんを目標にして頑張り始めましたよ」
だが経済的な問題もあり、両親は姉弟2人に、ずっとフィギュアスケートを続けさせるつもりはなかったという。小学校中学年ごろ、羽生がスケートを辞めるという話も浮上したというが、お姉さんが「結弦が辞めるくらいなら、自分が辞める」と、強く主張したこともあって、羽生はスケートを続けることになったようだ。その後、お姉さんも高校生までフィギュアを続けたが、自分が選手として世界を目指すという夢は捨て、“あくまでも弟にアドバイスができるように”という気持ちになっていたのだ。
「父親の秀利さんは、地元宮城県内の中学校で教頭先生をしています。4つ年上の姉は、羽生のホームグラウンドだったアイスリンク仙台の職員。堅い家ですから、隠し立てしなければいけないようなことは何もないはずなんですがね」
羽生は、2年前から父親と姉が住む実家を離れて、ブライアン・オーサー・コーチのいるカナダのトロントで由美さんと暮らしている。
演技前に必ず行う胸の前で十字を切るような動作は、実際には「士」の形を描いており、「ジャンプの回転軸と両肩を平行に保つ意識を確認する自己流のおまじない」である[14]。
2歳の頃から喘息(ぜんそく)の持病があり、スケートを始めた当初の目的も喘息を克服することにあった[15]。肺を大きく開いて息を吸い込むことができないため、長年体力や持久力の面で劣ると指摘されてきたが、投薬治療、吸入薬、鍼治療、冷気を避けるためのマスク着用などの対策を続け、改善されつつある
家族のことはあまり公にしないお母さん。なので、ご家族のことを調べるのは難しく感じました。数少ない羽生結弦選手のご家族の記事でしたが、その中でも、家族一人一人がそれぞれを思いやり支えあっている姿を文章の中から見ることができました。
お父さんをみても、お母さんを見ても、お姉さんを見てもどこにでもいそうなありふれた一般的な家族です。
羽生結弦選手日家は決してお金持ちではありません。一般的な家庭であり、家族です。
ソチオリンピックで金メダルがとれたのも、羽生結弦選手の努力と家族の支えがあったからこそだと思います。
今回羽生結弦選手の記事をまとめてみて、家族の大切さ、家族とのつながりを感じることができました。
人は人と人とが支えあって生きているといいますが、家族も家族と家族が支えあって生きていくことにより、なかなか人が達成できないことでも努力をすることによりできるのだなと思いました。
これからも、家族の支えに感謝しながら、世界に羽ばたいてほしいと思います。
頑張れ 羽生結弦選手
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