【ビートたけし】死刑制度に対して苦言「殺しただけでは・・・」
2015/10/09
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ビートたけし(1947年1月18日 - )は、日本のコメディアン、タレント、映画監督、俳優。本名:北野 武(きたの たけし)。日本国外では本名名義の映画監督・北野 武としての知名度が高い。
東京都足立区島根出身。オフィス北野所属。
1980年代初頭に起こった漫才ブームの中で社会風刺を題材としたシニカルな笑いツービートで人気を獲得、フジテレビTHE MANZAIやその後継であったオレたちひょうきん族らに出演し番組が大ヒット、一般人、芸能人(特に後輩芸人)問わず未だに発言や行動に多大な影響力をもつ人物の一人。
【伝説の漫才】ツービート ビートたけし・ビートきよし 伝説の漫才・コント 2本立て
ビートたけしさんが出演する『世界まる見え!テレビ特捜部』は25年を迎える長寿番組ですね。
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ビートたけしさんが事故を起こした安鎮坂
バイク事故後にビートたけしさんが搬送された病院
1994年「八月二日一時三十七分、新宿区南元町の都道でミニバイクを運転中のテレビタレントのビートたけし(四十七歳)は、右カーブを曲がりきれず、道路左脇のガードレールに接触転倒し、新宿区の東京医大病院に運ばれたが、右側頭部頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、右頬骨複雑骨折で長期入院が加療が必要と診断され、面会謝絶の状態」
ビートたけしさんの症状から事故の大きさがわかります。
当時の愛人と噂された細川ふみえさん
深夜、たけし軍団メンバーと別れ、購入したばかりの原付バイクに酒気帯び状態で跨り、愛人宅へ向かう途中の事故でした。対向車との接触などではなく、運転ミスによりスッ転がったものです。たけしは意識不明の重体となって生死の境を彷徨い、病院でようやく意識を取り戻した時には、事故前後数時間の記憶は失われていました。
事故の第一発見者は当時スーパーアイドル・諸星和己さん
「たまたまだった。レコーディングしてて(人に)会わなきゃいけない。そこに行かなきゃいけないって時に、大渋滞してて事故してる人がいた」と事故の状況を説明。その時は諸星はその人物がたけしだと知らなかったようで、「僕、スーパーアイドルだったんで、車に携帯がついていたんです。タクシーの運転手に、救急車来たらあとお願いしますって」と明かした。当時、今のように携帯電話を持っている人は少ない時代(あっても馬鹿デカい携帯)。
退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、退院会見では「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と、自らの怪我をネタにした。
このビートたけしさんの会見は衝撃的でした。事故の大きさを物語る顔面麻痺の症状です。
事故から7ヶ月後にビートたけしさんは番組に復帰しました。
この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故の前年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。
ビートたけしさんと逸見政孝さん、事故後に復帰した「平成教育委員会」は二人で司会をした人気番組でした。
逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。また、逸見の病院での見舞いに訪れる事も、逸見家から許可され、たけしは逸見の変わり果てた姿に衝撃を受け、その日から告別式の日まで、仕事をすべてキャンセルしている。
1993年9月にガン再発の記者会見を行った逸見政孝さん、その年の12月25日に亡くなりました。
「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語り、告別式の間は終始、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。告別式では、弔辞をたけしが読む予定であったが、たけしがとても、弔辞を読める心境ではなかったことから、代わりに山城新伍が読んでいる。
ビートたけしさんと逸見政孝さんの親密さがわかりますね。逸見政孝さんの死の翌年、事故で生死の境を彷徨っていたビートたけしさんに声を掛けたという逸見政孝さん、その後のビートたけしさんは映画監督として活躍します。
ビートたけしさんは当時のバイク事故について、その状況や現在の心境について語っています。
テレビ番組でバイク事故について語ったビートたけし
「実は事故の原因はかなり映画があったの。自分としては自信があったのに、まるっきり評価がない。そうなると自分の感覚が悪いんだと思って」と右手の指で頭を指しながら語った。たけしは93年に監督4作目「ソナチネ」を発表している。
ビートたけしさんは当時は自信のあった映画作品が評価されず、自虐的になっていたそうです。
ビートたけし バイク事故で幽体離脱体験を告白
たけしは「俺がぶっ倒れてるの。で、タクシーの運転手が見つけてくれるんだけど、完全に街灯の下に倒れて、それで助かったんだけど」とバイク事故の状況を説明。そして、「その時に後で麻酔打って手術すごいから、その時の夢だかなんだかで、こう上から自分の倒れているのを客観的に見たような気がするの」と幽体離脱体験を明かした。
フジテレビ系『ワイドナショー』でバイク事故について語ったビートたけし
当時のビートたけしさんはうつ状態だったと認めています。事故は自殺では?と言われたこともありました。
「あの時、頭打ったでしょう。あの後、何十年と生きていると思っているけど、目を開けたらまた病院のベッドの上だったりするのかなって思うことある。時々、薄目を明けて、病室でないことを確認したり、トラウマになっているんだよね」と明かす。
事故後のビートたけしさんは「世界のキタノ」と言われるほど、映画監督として世界的に評価れています。
ビートたけしさんが1994年に起こしたバイク事故を中心にご紹介しました。
ビートたけしさんに憧れて芸人になったと公言するお笑い芸人も多くいます。親友・逸見政孝さんが生かしてくれたという大切な命、「世界のキタノ」と評価されるビートたけしさんは日本人が世界に誇れる一人ですね。これからもお笑い芸人「ビートたけし」、映画監督「北野武」として活躍に期待しています。
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