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沢田研二さんの名曲の『TOKIO』とは?気になる名曲の謎を追求!

60年代から70年代にかけて大活躍した日本ポップス界のトップスター沢田研二さん。沢田研二さんが1980年の幕開けに発表した名曲『TOKIO』。『TOKIO』とは何なのか?沢田研二さんの名曲『TOKIO』の誕生から曲にまつわるエピソードも紹介します。

沢田研二さんとは?プロフィールを紹介

沢田 研二 (さわだ けんじ)
本名:澤田 研二
生年月日:1948年6月25日 (67歳)
出身地:鳥取県鳥取市
身長:171㎝

主なヒット曲:「危険なふたり」、「時の過ぎゆくままに」、「勝手にしやがれ」、
「カサブランカ・ダンディ」

「ザ・タイガース」でデビューした沢田研二さん

京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダース(後のザ・タイガース)に声をかけられ、17歳の沢田研二はローディー兼ボーカリストになった

出典:https://ja.wikipedia.org

「ザ・タイガース」とは1967年にデビューしたグループサウンズで沢田研二さんはボーカルを努めていました。
ヒット曲を連発し、「ザ・タイガース」はグループ・サウンズの頂点に昇りつめます。
ボーカルの沢田研二さんはそのルックスで女性ファンを虜にし、大人気になります。

1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(1966年12月の録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビュー。

出典:https://ja.wikipedia.org

グループ・サウンズの終焉で沢田研二さんの「ザ・タイガース」も解散へ

1970年4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」を開催するが、12月7日にザ・タイガースは解散を表明。翌1971年1月24日、日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する

出典:https://ja.wikipedia.org

沢田研二さんがメンバーだった「ザ・タイガース」はデビューから4年、人気絶頂の中解散したと言われています。
しかし、内情は色々とあり、沢田研二さんをソロシンガーにしたい、メンバーが脱退したのが解散へと繋がったなど様々な憶測がありました。

ソロシンガーとしてデビューした沢田研二さん

やはり「ザ・タイガース」で一番の人気を誇っていてボーカルの沢田研二さんはソロデビューします。
厳密には沢田研二さんは「ザ・タイガース」解散後はPYGというバンドに参加していました。その後沢田研二さんはそのデビューします。

沢田研二は1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビュー。オリコン最高位は23位だった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースのもとに、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田研二のソロ活動のスタートであった。

出典:https://ja.wikipedia.org

沢田研二さんの名曲『TOKIO』とは?

『TOKIO』とは1980年1月1日に発表された沢田研二さんの29枚目のシングル曲です。
『TOKIO』の収録アルバムはシングル曲と同じ『TOKIO』とタイトルされています。
アルバム『TOKIO』は1979年11月25日に発売されているので、シングルカットされた曲になりますね。

沢田研二さんの『TOKIO』と言えば、このパラシュートを背負ったパフォーマンスで有名です。
このパラシュートとTOKIOはどのような関係があるのでしょうか?

『TOKIO』はテレビ番組などで、電飾の施された衣装を纏い、パラシュートを背負って歌う姿は注目を集めた。なお、このパラシュートのアイデアは沢田研二本人が提案した。

出典:http://ja.wikipedia.org

『TOKIO』のパフォーマンスに関して、デビュー以来約10年連れ添ったバックバンドのリーダーである井上堯之は違和感を覚え、井上堯之バンドは解散することとなる

出典:https://ja.wikipedia.org

なんと『TOKIO』のパラシュートを背負ったパフォーマンスがバックバントの解散に繋がったとは…
沢田研二さんの強行的なパフォーマンスだったのでしょうか…?

沢田研二さんの名曲『TOKIO』は1980年代の幕開けの曲だった!

沢田研二さんの『TOKIO』の発売日は1980年1月1日。
まさに『TOKIO』は80年代の始まりの日に発売された記念すべき曲なのです!

画面を見ていた人の多くが、意表をついた派手な演出に度肝を抜かれる中、沢田研二の歌う「TOKIO」が80年代の到来を知らせた。
除夜の鐘を聞きながら静かに新年を迎えるNHKの「ゆく年くる年」とはまさに対照的、派手派手で民放らしい「ゆく年くる年」の幕開けとなった。

出典:http://www.tapthepop.net

沢田研二さんの『TOKIO』です。
とてもインパンクトのあるパフォーマンスと衣装で80年代の幕開けにふさわしいのではないでしょうか?

『TOKIO』はテクノユニットYMOからインスパイアされた曲

沢田研二さんの『TOKIO』は日本のテクノユニット・YMOの「テクノポリス」という曲からヒントを得てプロデューサーの加瀬邦彦さんが作曲し、糸井重里さんが作詞したのです。

そして1980年代を迎えるにあたって、新しいサウンドにこだわっていた加瀬邦彦は、いち早くテクノポップを取り入れた「TOKIO」を作り上げる。

出典:http://www.tapthepop.net

沢田研二のソロとして13枚目となるオリジナル・アルバム『TOKIO』は、1979年11月25日にリリースされた。
その1曲目が「TOKIO」で、作詞・糸井重里、作曲・加瀬邦彦、編曲・後藤次利によるテクノ風なロックナンバーである。

出典:http://www.tapthepop.net

1980年1月1日、セイコーが0時の時報を告げたあと、電飾付きのパラシュートを背負ったジュリーが登場。加瀬邦彦のドライブ感のある曲に糸井重里の時代感のある詞を乗せた「TOKIO」を熱唱した。80年代の幕が切って落とされたのである。まだ糸井重里も知る人ぞ知るだったし、ジュリーもスターの絶頂にいた。
「安らぎ知らない遊園地がスイッチひとつで真っ赤に燃え上がる」
 走り出したら止まらない、人々の不安とその裏腹としての喧噪、そしてその末路としてのバブル崩壊を予見するような歌詞。楽曲はテクノ入ってるし。ジャケットはポップアート風で時代を感じさせる。

出典:http://www.amazon.co.jp

ちょうどその頃にロンドンからパリ、ニューヨークとワールドツアーを行っていたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が、10月に最初のシングル盤の「テクノポリス」を発売している。
「テクノポリス」では曲中には、「TOKIO(トキオ)」という言葉がたびたび繰り出されている。
『TOKIO』の発売はその1か月後だったが、東京を“TOKIO”と呼ぶ感覚はYMOにも通じる新鮮さがあった。

出典:http://www.tapthepop.net

沢田研二さんの『TOKIO』はジャニーズグループのTOKIOと関係ある?

沢田研二さんの曲『TOKIO』とアイドルグループTOKIOは関係あるのでしょうか?
一般的に海外ではTOKYOのことをTOKIOと発音するので、ジャ二ーさんがTOKIOをデビューさせる際に世界で羽ばたくようなグループ名をということでつけたみたいですが、多少は沢田研二さんの『TOKIO』からヒントを得たような感じもします。

欧州あたりで「東京」という意味の単語が「TOKIO」だから、というところから派生し、世界に通用するバンドになるようにという意味でジャニーさんからもらった名前です。
ジャニーさんが「バンドをデビューさせるときにつけよう」と温めていた名前らしいです。

出典:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

【まとめ】 沢田研二さんの『TOKIO』は大都市「TOKYO」だった!

沢田研二さんの曲『TOKIO』についての謎を解明してみました、いかがでしたか?
『TOKIO』はやはりTOKYOの海外読みだということだと思います。
沢田研二さんの『TOKIO』のテクノ調の曲調は80年代の幕明けにはぴったりで、当時沢田研二さん新しい音楽性を示した曲なのかもしれません。
この『TOKIO』のパフォーマンスが原因でバックバンドが解散したりといろんな意味で沢田研二さんいとって転機になった曲だと思います。

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