世界のミフネとまで言われた三船敏郎の晩年は落ちぶれたものだった
2018/11/15
まぁぴょん
黒沢明監督の映画「七人の侍」や「用心棒」などで国際的スターになった俳優の故三船敏郎さん(享年77)が22日、2016年にハリウッドの殿堂「ウォーク・オブ・フェイム(名声の歩道)」入りする人物に選ばれた。日本関係では、映画「戦場にかける橋」に出演し、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた早川雪洲のほか、日本映画が生んだ怪獣ゴジラも選ばれている。
誰もが知る往年の大スター・三船敏郎さん。
亡くなっても尚、こうして注目され、忘れられることのない三船敏郎さんはすごいですね。
三船敏郎といえば黒澤明監督の映画で一躍有名になり、「世界のミフネ」と呼ばれ世界中の俳優や監督にリスペクトされてきた俳優さんです。
そんな三船敏郎さんですが、その晩年は華やかな映画人生に比べて不遇なものだったという話が………三船敏郎さんの晩年はどんなものだったのでしょうか。
晩年はプロダクション設立や宗教問題、認知症などで苦労が多かった三船敏郎さん。
『七人の侍』『羅生門』など、名監督・黒澤明の作品に数多く出演した大俳優。
海外での評価・人気も、日本の俳優の中でずば抜けて高く、「世界のミフネ」と呼ばれた。
国内外を問わず著名人にもファンは多い。
国内では、その才能と外見に惚れこんだ黒澤明をはじめとして、 菅原文太から勝新太郎などの往年の大俳優から現代の俳優に至るまで、数多くの人間の尊敬を受けている。
海外では、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカス、クリント・イーストウッド、ロバート・デ・ニーロなどがファンを公言している。
特にルーカスは、『スターウォーズ』のダース・ベイダー役を最初、三船に打診したほど(当の三船は頑なに拒否した。その後何故かスピルバーグの『1941』には出たが、これは大ゴケした)。
スクリーンの中で映える顔立ちや立ち振る舞いはもちろん、高速度カメラでないと捕らえきれないほどのキレを持つ(『用心棒』)殺陣や、野性味溢れる豪傑から紳士的な老人までを幅広く演じる演技力など、俳優としての実力は非常に高い。
若い頃の三船敏郎さん。
三船敏郎さんといえばワイルドな侍や髭をはやした姿を思い浮かべますが、こうしてみるとものすごいイケメンですよね……!カッコ良過ぎる!
荒々しい魅力が溢れています。
まさに漢!
こんな気さくな一面もあったとは驚きです。
高橋ジョージさんとの離婚で揉めている三船美佳さんが三船敏郎さんの娘だということは有名ですよね。
しかし、三船美佳さんは三船敏郎さんの”妻”の娘ではありません。
三船敏郎さんと愛人だった喜多川美佳(本名・大野照代)さんとの間の娘なんです。
「三船敏郎の娘」として芸能活動している三船美佳さんが愛人の子供というのはなんだか驚きますね。
三船敏郎さんの愛人だった喜多川美佳さん。
娘の三船美佳さん。
こちらは本妻の吉峰幸子さん。
しかしこの次男が誕生してから10年ほど経った頃から、夫婦仲は冷めて行きました。家を追い出され別居状態となった三船さんは、数回の離婚訴訟を起こしましたが、幸子さんはそれを受け入れませんでした。
三船敏郎さんはかなりの酒乱だったようで、それで家を追い出されてしまったようです。
そんな最中に、三船さんと喜多川さんの交際がはじまりました。喜多川さんは、三船敏郎さんが設立した三船プロダクションに所属する女優でした。
公の場にも夫婦同然で登場するほどで、影の愛人というよりは、かなり堂々としたものだったようです。
喜多川美佳さんと娘の三船美佳さん。
妻との離婚騒動があって、愛人である喜多川美佳さんと暮らしていた三船敏郎さん。
しかし、最晩年、認知症を発症して介護が必要になってからは本妻のもとに戻ったのだそうです。
私が知っている限りでは、
三船敏郎が要介護(認知症)になって、喜多川さんが介護をするのを拒否し、老人ホームに入所させました。
それを離婚しないでずっと夫が戻って来るのを待っていた本妻の方が三船さんを引き取り介護しました。
と言うことです。
「彼女「(母親の美佳)は三船プロの女優だったんだけど、糟糠の妻がいた三船敏郎と深い仲になり、三船を巡って本妻と別れる別れないのつばぜり合いを繰り返したのは有名な話。
そのとき生まれたのが、娘の美佳。自分の女優としての芸名を娘の名前につけ、戸籍上は三船ではないのに三船を名乗らせていることからも分かる通り、彼女(母・美佳)はとても押しが強い。三船プロにも入り込み、その後内紛もあって、結果的に三船プロが縮小していくわけですが……。
しかし、晩年、精も根も尽き果てたように三船敏郎は落ちぶれ、あるイベントでは毛玉の目立つカーディガン姿で受付に座っているところを大勢に目撃されています。そして、いよいよ介護が必要というときに、彼女とは疎遠になり、看病に戻ったのは本妻でした。
ピークを過ぎた高橋ジョージのもとから出て行った三船美佳と、ダブって見えませんか」
文芸春秋11月号に載っていた『三船敏郎の栄光と、その破滅』を読む。
渾身のノンフィクションと言うにはやや底が浅い気がするが、三船の晩年の姿をきちんと描いているのは大変に貴重である。
三船プロの盛衰、特にプロの片腕だった田中寿一が独立、分裂して以降の下降の中で、三船は、家庭の騒動もあり、心身共に老いて言ったようだ。
そして、平成に入り、認知症状態になったとのこと。
その中で、愛人喜多川美佳と別れ、元妻だった幸子と再会する。
この間の妻、そして愛人との離婚騒動は、テレビ、週刊誌のスキャンダルになったが、ほとんどは事実だったようだ。
だが、ここでも分かるのは、三船がいかに真面目で、誠実で、しかし大変に不器用な人間だったかと言うことである。
彼には、適当に人間関係を処理してうまく立ち回る、と言うことがまったくできない人間だったようだ。
晩年、喜多川美佳さんと別居したのは宗教の問題もあったようです。
創価学会の信者である喜多川さんが仏壇の位牌を捨てたために別居になったとか……
しかし、長年愛人のもとにいて認知症になって戻ってきた夫の面倒をみた妻の吉峰幸子さんはすごいですね。晩年は本妻のもとで最後のときを過ごした三船敏郎さんでした。
三船敏郎さんが国際的な映画スターになったのは黒澤明監督の作品があってこそ、だと思うのですが、晩年は黒澤明監督と三船敏郎さんは不仲だったという噂を聞きました。
本当のところ、晩年二人の仲は本当に不仲だったんでしょうか?
三船敏郎は1962年に「三船プロ」を設立しています。その近辺の作品は、
1961年 用心棒
1962年 椿三十郎
1965年 赤ひげ
…となっており、1965年に発表された「赤ひげ」以降、三船敏郎は黒澤映画に顔を出さなくなりました。この原因として大方の意見は『三船プロ経営上の都合から、黒澤映画の長い拘束に応えることができなくなった』となっています。
NHKBSプレミアムの「衛星映画劇場」の解説を行っている渡辺俊雄さんも次のように語っているようです。
「三船は「赤ひげ」と「用心棒」で二回もヴェネチア映画祭の男優賞を取って世界のミフネになってしまった。それで三船プロダクションを設立させて、そちらも忙しくなってしまって、お互い忙しくなってしまって、良友が離れていってしまったという事でしょうね」
■1965年以降の三船敏郎はアメリカ映画へどんどん進出して行きます。
1967年「グランプリ」、1971年「レッドサン」、1976年「ミッドウェイ」、1980年「将軍」
■一方の黒澤明は、1967年に『トラ・トラ・トラ』の初稿を完成。翌1968年に日本側の撮影を開始しますが、わずか三週間後に20世紀フォックスから解任されてしまいます。
この間の様子を調べてみると、撮影が全く進まなかった。その原因として、黒澤がセットに異常にこだった(スタッフに作り直し・塗りなおしをたびたび命じた)、黒澤の独特のやり方にスタッフがついていけなかった(山本五十六役の俳優がスタジオに入るたびにファンファーレの演奏とスタッフ全員による最敬礼を求めた)、黒澤が選んだ素人俳優たちがスタッフを満足させる演技を行えなかった、黒澤が酒に酔った状態で何度もスタジオに現れたことなどがあげられています。
この「トラ・トラ・トラ!」関して三船敏郎はについて次のように語っているそうです。
…黒澤さんの問題がこじれてから、FOXからオファーがあり日本支社長がやって来て「山本五十六役で出てくれ」という。
それに対して僕は
「いま入院中だし、その間の事情もよくわからない。黒澤さんとめているようだけれど、まずそれを円満に解決していただきたい」
「私は三船プロの代表で、いま百二十人ぐらいの社員を抱えているから、自分が役者としてだけ演技を切り売りして出る訳にはいかない。日本側の製作を全て三船プロに一任するという形なら、山本五十六役を引き受けても良い」
と答えました。
また「この作品は黒澤さんが三年もかかって、二十六回も改訂して、苦心して書いた本だ。これは黒澤さん以外に撮る人はないのじゃないか」ということで、あくまでも黒澤さんに演出させて欲しいと申し入れた。
■その後黒澤明は1975年にデルス・ウザーラを発表しますが、ソ連大使館で行われた製作発表時に「主役は三船敏郎を予定しているが、二年間拘束されるのでスケジュール調整が難航している」と語ったとあります。結局、三船敏郎は主役を引き受けませんでしたが、黒澤がロシアでデルス・ウザーラを撮影している所へ三船が陣中見舞いにやってきて「どんな端役でもいいから使ってくれ」と申し込んだそうです。黒澤はそれに対して「それなら主役でやってくれ。端役になんて使えないよ」と断ったそうです。
■これらのエピソードを見ても、黒澤明と三船敏郎の間に確執があった訳ではないとわかります。黒澤映画は拘束時間も長くギャラも十分出るとはいえないらしく(黒澤がケチだった訳ではなく、合成を嫌ったり、大掛かりなセットを必要としたりで制作費がかさむので役者のギャラの割合が低くなってしまうらしい)、三船敏郎は自分のプロダクションを立ち上げて大勢の社員を雇用する立場になってしまったので、手弁当で参加というわけにもいかなくなってしまったというのが大方の見方のようです。
晩年の三船敏郎さんは黒澤明監督と不仲だという話がありましたが、これを読む限り不仲なわけではなく、仕事のスタンスや立場のせいで一緒に仕事をすることが出来なくなってしまった、ということのようですね。
前の奥さんと別れて三船美佳の母親と再婚してからおかしくなったと言われている。お世話になった監督やスタッフへの態度や金遣いなどだんだんおかしくなって有能な人は去って行き再婚後はたいした仕事してない。
三船敏郎さんが、晩年認知症になり、かなり重くなったときに監督たってのお願いで映画にワンシーン出る事になったのだけど、もう意識も朦朧としてるのに照明を浴びてカメラを向けられたら気迫を取り戻してしゃべり始めた、って逸話があるのだけど、そういうのなんか感動するよなあ。
三船敏郎の晩年が悲惨だったというのはなんとなく知っていたが、二番目の奥さんが創価学会員で、三船は半ば広告塔として使われ、認知症になってからは財産も奪われ介護は元妻が担っていたと。その二番目の奥さんとの間の娘が三船美佳。高橋ジョージが創価学会員なのは知っていたけど、色々つながった。
『羅生門』『七人の侍』『用心棒』など名作の数々でスピルバーグらハリウッドの名匠も憧れた“世界のミフネ”。一方、私生活では酒乱や不倫騒動でスキャンダルにまみれた。盟友・黒澤明との不仲の真相とは。そして初めて明かされる最晩年。
三船敏郎の生涯~最晩年までが記された評伝が2014年に発行されています。
三船敏郎のプロダクション設立の苦労から、離婚騒動、愛人・喜多川美佳さんとの関係や創価学会のこと、晩年の認知症のことなども詳しく書かれているので、興味のある方は一読されてはいかがでしょうか?
晩年の三船敏郎さんは愛人のことなどもあって色々とイメージが良くない印象を抱いている人もいるかもしれませんが、本当の三船敏郎さんは真面目で不器用なゆえに大スターに似合わない不遇な晩年を送ることになったのだと思いました………
晩年の三船敏郎さんしか知らない人も、全然三船敏郎さんを知らない世代の人にも、三船さんの凄さを改めて知って欲しいですね。
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