アントニオ猪木さんの代名詞・「道」はオリジナル?誰が作ったの?
2018/11/23
bohemianrhapso1
アントニオ猪木プロフィール
アントニオ猪木さん、身長のわりに体重はレスラーとしては軽量ですね。
レスラー人生の道のりを歩むには決して恵まれた体型ではなかったようです。
そんなアントニオ猪木さんの歩んだ道のりを振り返ってみましょう!
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アントニオ猪木さんは日本プロレスの創始者力道山にスカウトされて
プロレスラーとしての道のりをスタートさせました。
リングネームをアントニオ猪木に改名。
このリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。
当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、
「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある。
レスラー人生成功への道のりには不可欠なリングネーム。
命名した方も素晴らしいセンスです。
1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。
しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、
当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、
リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した。
二人のレスラー人生の道のりには欠かせない出来事でした。
アントニオ猪木が新鋭のハルクホーガンに敗れたことは当時衝撃でした。
猪木は自身の最強を証明するため、格闘技の英雄アクラム・ペールワン、
「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、
異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。
世界の強豪との対決、アントニオ猪木にとっては険しい道のりが続きます。
世界にアントニオ猪木を知らしめた一戦です。
モハメド・アリとの対戦実現への道のりは相当大変だったようです。
4月4日東京ドームにおける引退記念イベント
「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、
小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、
グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。
この引退試合で、あの有名な「道」という詩を披露しました。
アントニオ猪木作、題名「道」
アントニオ猪木のレスラー人生を表したかのような詩「道」を聞いて
引退試合を見た誰もが感動をしました。
アントニオ猪木の歩んだ道のりを語る上で
数々の伝説的なエピソードがありますが、特に有名なのは闘魂ビンタではないでしょうか?
どのような経緯でビンタをするようになったのか振りかえってみましょう。
一般人への闘魂ビンタへの道のりは
ここからスタートしました。
早稲田予備校での講演(題目「五月病に卍固め」)で、
予備校生のパンチを腹部に受ける余興を行った。
その中の予備校生一人は、実は少林寺拳法の有段者であり、力を込めて殴った。
この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまった。
この学生の不意打ちから
アントニオ猪木の代名詞「闘魂ビンタ」の道のりがスタートしました。
選手・ファンが参加の『年越し闘魂注入!百八つビンタ』。
猪木プロデューサーが一人ひとりにビンタで闘魂注入。
最後は「1、2、3、ダーッ!」で締めたのだった。
今ではアントニオ猪木さんのビンタは、すっかり名物化していますね。
プロレスラー、アントニオ猪木としての道のりは決して楽なものではなかったアントニオ猪木さん。
その後、政治家アントニオ猪木としても数々の功績に加え事件などにも巻き込まれたりと
険しい道のりを歩んできたアントニオ猪木さんですが、現在は「日本を元気にする会」を設立し、
最高顧問として政界で活躍しています。
プロレスラー時代同様、今後もアントニオ猪木さんの歩む道のりに期待しましょう!
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