【残念2世】中村雅俊の息子・中村俊太の衝撃逮捕!その後の人生は?
2020/04/03
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出生名 加藤 和枝(かとう かずえ)
出生 1937年5月29日
出身地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市磯子区滝頭
死没 1989年6月24日(満52歳没)
学歴 精華学園高等部卒業
ジャンル 歌謡曲、演歌、ジャズ
職業 歌手、女優
担当楽器 歌
活動期間 1949年 - 1989年
16歳の時にひばりプロダクションの副社長に就任し、美空ひばりの晩年を支える。
美空ひばり亡きあと音楽プロデューサーを志し、ブルースシンガーの大木トオル氏に師事。
現在は、社長としてさまざまなイベントをプロデュースしている。
和也氏はひばりの実弟・かとう哲也の息子として生まれた。
生みの母の記憶はまったくないという。
物心がついた時には、ひばりを「ママ」と呼んでいた。
77年にひばりはその和也氏を長男として養子縁組。
和也氏が5歳の時だった。
美空ひばりさんと息子さんの一緒にいられる時間が3日とは・・・。
息子さんは美空ひばりさんがいなくてとても寂しい思いをしたのではと思いますが、本人は以下のように答えていますね。
友達の家に遊びに行くと、まずお母さんが家にいて、休みの日はお父さんも家にいて、お昼になると焼きそばだとか、カレーライスとかご飯を作ってくれて。
それを食べさせてもらうんですけど『家ってこうなのか』とういうのが、大体そのときにわかって。
人のお父さんなんですけど、キャッチボールをやるときに、友達と僕を並べてもらって 交互にやってもらって。
なんか、いいな、とはちょっと、その時に思いましたけれども。
美空ひばりさんの息子さんだけではなく、誰でもやはりそういう状況だと比べてしまうものですよね。
美空ひばりさんの息子さんも羨ましいという気持ちはあったでしょう。
子供は誰でもそうですよね。
美空ひばりさんも息子さんに会えることをずっと楽しみに励みに仕事を頑張っていたのでしょう。
一番うれしかったのは、多分、高価なものだったと思うんですけど
8ミリの映写機を買ってくれて、一緒に家にいるときは2人で いちごなんかを食べながら、一緒に観てもらったり。
一緒にいちごを食べたりという些細なことでも美空ひばりさんと息子さんにとってはとても大切な時間ですよね。
美空ひばりさんも息子さんのためにと色々頑張っていたのでしょうね。
小学生のとき、戦争について家族の人に聞いてきなさい、という宿題が出ました。
地方巡業中のおふくろにその話をすると、幼い頃に体験した空襲の話をカセットテープに吹き込み、速達で送ってきてくれたこともありました。
わざわざそこまでしてくれるという息子思いの美空ひばりさん。
母親として素晴らしいですよね。
そうそう、僕が飼っていたインコに聞かせるようにと預かったテープは、スイッチを入れると、おふくろの声で『かーくん、宿題やって』と25分、流れてくるものもありました。
覚えられたら困る、と思ってインコに聞かせなかったものです。
いつになっても話せないので『おかしいわね』って言ってました(笑)
そんなおちゃめな美空ひばりさんの姿もあったんですねw
息子さんの学校の卒業式や運動会などといった行事も美空ひばりさんはできる限り参加していたそうです。
たまたま、家にボールが入っちゃった、ってあるじゃないですか。
近所の同年代の子ども達が遊んでいて、ボール取らして、ということで『じゃあ、庭で遊ぼうよ』って庭でキャッチボールなんかをしてるんですけど。
うちの祖母ちゃんがなかなか強烈なキャラの人で『どこの子?』とそういう時に限って、ばあちゃんがいるんですよ。
『どこの子か分らない子と、遊んじゃダメです』って言われて。
美空ひばりさんの息子さんはそのまま名前も知らないままお別れだったそうです。
それも悲しいものですが、子供のうちってそういうことも1度は経験しますよね。
『そういえば、パパとママって姉弟だよね』
家族、結婚ってこういうもので、というのがなんとなくわかるような年になって
何度か大人に困った質問をしたことがあるんですけど。
うちの親父とお袋は戸籍上、姉弟なので、実際はうちのお袋は伯母じゃないですか。
そういうことをきいたら、周りの人は困ってしまうんですよね。
ある日、小学校1年生か、2年生かだったと思うんですけど『和也、ちょっといらっしゃい』と言われて。
座ったら、お袋は下を向いて黙って座っていて祖母さんが『実はあんたの生みの親は別にいるのよ』ってそこで初めて聞かされて。
ただ、そんなにびっくりはしなかったんですよね。
『今日がこの日だったんだ。今日、これを聞かされる日だったんだ』と。
小さいながらに美空ひばりさんの息子さんはなんとなく気づいてはいたんですね。
それでも自分の母親はこの人だけと息子さんは思っていたそうです。
美空ひばりさんにとって息子さんのその思いは嬉しかったでしょうね。
1981年、祖母の喜美枝さんが他界。
ひばりさんを日本一の歌手に育て上げ“一卵性親子”と言われるほど、仲が良かった二人。
2年後、ひばりさんの弟であり、和也さんの実の父であった加藤哲也さんが他界。
そして、もう一人の弟、香山武彦さんまでもが他界。
ひばりさんを支えて来た家族が次々に亡くなってしまったのです。
続けて家族が亡くなり、美空ひばりさんの悲しみは深いものだったと思います。
1987年、コンサート直後に足の痛みを訴えて倒れたひばりさん。
両側大腿骨骨頭壊死と肝硬変、再起絶望とまで言われた重症でした。
しかし1年の休養を経て甦りました。
待ち望むファンの前で再び見事な歌声を響かせたのです。
母の復活に奇跡を感じたという和也さん。
しかし母の体が完全に回復してはいない事も分っていました。
1989年、再び入院。二度とステージに立つ事はなかったのです。
覚悟はできていたんですけど、『この人が逝くわけがない』とどこかで思っていましたし、だから多分、最後まで憎まれ口をきき続けたんじゃないかなと。
もう少し優しくしてあげればいいのに、と周りも思っていたと思うんですよね。
ただ、あの状態になったお袋に優しくすると、本当にいなくなってしまうような気がしていたので。
もうちょっと何かいろいろしゃべっておきたかったな、と今思うとそう思いますけれど。
美空ひばりさんの息子さんは病院から一度帰ろうと車に乗ったそうです。
しかし、なぜか『戻らなきゃ』という気持ちになり、病室へ引き返しました。
すると心電図計の音と医師の走る音が・・・。
最後は電気ショックを、3回くらいですかね、ダーン!ダーン!って身体が本当に痛々しく上がるんですよ。
もう、とうとう最後は自分で 『もう、やめてください』って言っているんですよ。
本当は、後の1回で生き返るかもしれないのに、でも、もう見ていられなかったっていうのが本当のところだったんです。
『ご臨終です』のひと言がやっぱり耳に響くんですよね。
お医者さんが時計を見て、一瞬、わけがわからなくなるくらい 悲しくなったんですけど、なぜかそこで『これじゃダメだ』と思っているんですよね。
自分でもよくわかないんですけど、いつもよりきっちりしていたと思います。
美空ひばりさんが亡くなって年月が経っても、っその活躍をたくさんの人に知ってもらいたい、忘れて欲しくないと息子さんは思っているそうです。
現在も美空ひばりさんの存在を記憶に残して欲しいと息子さんは様々な活動をしているようですよ。
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