2023/12/15
take79
ケーシー高峰さんといえば、白衣姿と聴診器を首にぶら下げて、黒板に白いチョークを使って医療関連の言葉を書きながら、所どころにお色気を含んだネタを交えて、観客を爆笑の渦に巻き込んでいくあまり見かけない芸風の医事漫談家として有名です。
ケーシー高峰の家族構成は、商社マンの父と産婦人科医として働いていた母に、結婚し妻との間に息子が2人います。自分の息子の名前に「アミーゴ」と付けたことで話題にもなっています。
語り口調からいい加減な人のように見えるケーシー高峰さんですが、実はエリートだったのです。ケーシー高峰さんの母方が先祖代々医師の家系で、母も産婦人科医、その影響から高校卒業後に、日本大学の医学部に入学し、医師を目指していたと言われています。
母の影響から医者を目指したケーシー高峰さんでしたが、大学の教授と意見や考え方が違うことと、モダンジャズに熱を入れ過ぎて、本業である学業をおろそかにしたことにより日本大学芸術学部に転部しました。
ケーシー高峰さんは、山形県立新庄北高等学校卒業後に、日本大学の医学部に入学し、その後芸術部に転部し、卒業後に、「坊られい」という芸名で芸能の世界に足を踏み入れて漫才師を目指して活動をはじめました。その後1968年、「ケーシー高峰」に改名し、2人で行う漫才師から一人で観客を笑わす医事漫談家に転身しています。
その後、医事漫談と所どころにお色気ネタを入れる内容が話題となり、人気物になって、本業の医事漫談家以外の映画に60作品以上出演。さらに「夢千代日記」「新・事件 わが歌は花いちもんめ」などのNHKのテレビドラマや「京都金沢舌切り雀殺人事件」など40以上のテレビ番組に俳優として出演した実績の持ち主です。
さらに、「そりゃあないぜセニョリータ」「可哀想だぜ / 別れた女」など6作品のレコードもリリースするなどの医事漫談家・俳優・歌手など多方面で才能を発揮した経歴を持っています。
ケーシー高峰さんは、日本大学芸術部を卒業後に、漫才師・大空ヒットに弟子入りして芸能活動を始めています。その後、1922年から2004ごろまで活躍した漫才師コロムビア・トップさんの弟子である「大空はるか」さんと漫才コンビを組み、「大空はるか・かなた」の名で漫才師としてデビューを果しています。
「大空はるか・かなた」の名で漫才師としてデビューした当初は人気が出て、順調にスタートするも、コロムビア・トップさんの一派の問題からコンビ解散へと追い込まれます。そしてコンビ解散後の1968年に「かなた」と名乗っていた芸名を「ケーシー高峰」に改名しています。
その改名をきっかけに、「大空はるか・かなた」と名乗っていた漫才師時代と同じネタである、お色気ネタに、医療関連の用語を組み合わせたネタで観客を笑わす医事漫談家へと転身を果たしています。
ケーシー高峰さんの経歴のところで、お話しましたが、医事漫談家以外にもテレビドラマや映画に多く出演しています。映画のデビュー作が1970年に公開された「冠婚葬祭入門」です。ケーシー高峰さんをはじめ、三木のり平さん・由利徹さんなどが出演するコメディータッチの映画。
その映画には、他にも、森光子さん・倍賞美津子さん・藤村俊二さん・高松しげおさんなど豪華なメンバーが出演しています。ケーシー高峰さんはその映画で俳優としてデビューしています。
ケーシー高峰さんは、「冠婚葬祭入門」で映画デビューを果たした後、日本アカデミー賞新人俳優賞の経歴を持つ根岸 吉太郎の監督の「遠雷」、深沢七郎原作の同名小説を木下惠介監督が作りあげた、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作「「楢山節考」に出演しています。
また元暴力団員で、暴行傷害・賭博・麻薬などの罪で、刑務所生活の経験を持っている安部譲二さんの小説、警察の刑務所を題材にした「塀の中の懲りない面々」など社会的に話題になった作品で独特な個性を発揮しています。
またテレビドラマにも俳優として多く出演し、吉永小百合主演の人間模様を描いた「夢千代日記」「新事件」オカマの社長でありながらヤクザの親分役の「木更津キャッツアイ」「人間万事塞翁が丙午」「さすらい刑事旅情編」 など名脇役として活躍しています。
ケーシー高峰さんは医事漫談家以外には映画・テレビドラマの俳優として活躍しています。ケーシー高峰さんは医事漫談家業、俳優業の活躍に止まることなく、歌手としてシングルとアルバムで20作品ほどのリリースをしています。
ケーシー高峰さんのシングルは 1970年発売の 「そりゃあないぜセニョリータ / ゆうべの僕」、1971年発売の「 いこうぜセニョール / 知らない海」「太郎と花子(サラポニタン) / 愛子」など6作品です。
また、アルバムには1973年に発売された「これでキマリだ! ケーシーの替歌集」でケーシーの夢は夜ひらく、ケーシーのズンドコ節、ケーシーのいい湯だな(いいナオンだな),
ケーシーの女のブルース(男のブルース)など12作品があります。
ケーシー高峰さんの魅力は、温かみのある山形なまりで、医療用語を、いかにも本当らしく喋る軽やかな口調に絶妙なタイミングで放つお色気ネタです。お色気ネタが多いケーシー高峰さんですが、人柄でしょうか、何故か憎めない感じがありました。
ケーシー高峰さんが真面目な顔をして黒板に書く姿に、観客が一瞬、真剣になる表情から真面目な顔をして放つお色気ネタが爆笑の渦に巻き込むこのギャップが魅力です。お色気ネタであるにも関わらず、誰ひとりも不快にさせない喋りは絶妙でした。
ケーシー高峰さんは多く映画やテレビドラマに出演したことで、都会的標準後でのセリフが多くなり、そのうっぷんを晴らすかのように従来の都会的なスタンダップ・コメディ路線から、温かみふがあってユーモラスな山形弁丸出しの芸風に変えています。
ケーシー高峰という面白い芸名は、どのようにして生まれたのでしょうか。もともと医学部に入学するなど医師希望であったことからその名を使ったとされています。果たしてその真実は、ケーシー高峰の名前の由来をみていきます。
ケーシー高峰の名前の由来は、ずばりドラマ『ベン・ケーシー』でした。アメリカABCで1話60分、全153話が放送されています。日本では、1962年から1964年まで放送さ、日本で放映された海外ドラマです。
このドラマは毎回、最高視聴率をあげるなど視聴率ナンバー1に輝いたアメリカのテレビドラマです。そのドラマの主人公の脳外科医の名前がベン・ケーシーです。ケーシー高峰さんが医者への憧れがあった影響からベン・ケーシーの名前を取り入れたと言われています。
そんな影響からか、舞台に上がるコスチュームも医者として想像できる聴診器に白衣姿とネタの最後に放つ「これを医学用語では、”なになに”と言う」のお決まりのフレーズでした。
ケーシー高峰さんの名前の由来は、アメリアで大ヒットして日本で最高視聴率をあげたテレビドラマの主人公の脳外科医の名前がベン・ケーシーが由来していることはわかりました。では何故、高峰なのでしょうか。実はケーシー高峰さんは大の高峰秀子のファンでした。
ケーシー高峰さんは、高峰秀子さん一目惚れしていました。いわゆる憧れ女優さんだったのです。その影響により、「ベン・ケーシ」のケーシと高峰秀子さんの高峰をプラスしてケーシー高峰の名前が誕生したのです。
高峰秀子さんは、幼少期から天才子役として活躍していました。高峰秀子さんの原点は松竹蒲田撮影所で、その後東宝を経て、フリーとなり女優業以外にも、歌手、エッセイストとしても活動しています。
高峰秀子さんは、本名は松山 秀子(まつやま ひでこ)愛称「デコちゃん」として親しまれていました。高峰秀子さんの子役時代は、ハリウッドの名子役として人気のあったシャーリー・テンプルと比較されるほどの注目を集めていました。
高峰秀子さんの代表的な映画は『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』などがあり、それ以外にも木下惠介・小津安二郎・豊田四郎など日本の代表的監督の作品に数多く出演しています。
また、高峰秀子さん自身と肉親との関係を題材にして書いた『わたしの渡世日記』は、日本エッセイスト・クラブ賞受賞作しています。他にも「人情話 松太郎」「台所のオーケストラ」「にんげんのおへそ」などの著書があります。
ケーシー高峰さんは、さまざまなネタやギャグを披露して観客を笑わせてきました。そんなケーシー高峰さんのネタとギャグについてお話します。
ケーシー高峰さんの代表的なギャグは、イタリア語でありがとうを意味する「グラッチェ」、スペイン語で男性を呼ぶときの「セニョール」、スペイン語で女性を呼ぶときの「セニョリータ」などラテン系の言葉です。
ここでは、ケーシー高峰さんのネタが見られる動画の案内と話題のネタについてお話します。
話題のネタは、香港映画の監督の息子、サモ・ハン・キンポーの女性に対する暴行事件をもじって、「女っていうのは、先っぽしか入ってなくても、さも半分入ったみたいにポーっと赤くなるね。これを医学用語で、「さも半キンポー」と言う。
などお色気に関する言葉の後に、必ずこれを医学用語と言うのがお決まりのスタイルです。他にも、病気で苦しむことなく楽しく天に召されることを東北では「楽天」と言う。など多数あります。
ケーシー高峰さんは落語芸術協会に入会した経歴を持っています。そんなケーシー高峰さんの講座を見ていた落語会の風雲児こと故立川談志師匠がケーシー高峰さん愛称ドクター」に勝てるススタンダップ・コメディアンはいないと言うほど高い評価を得ていました。
医事漫談家・俳優・タレントなどさまざまな経歴を持っているケーシー高峰さんは、現座どのような活動をされているのでしょうか。引退したといった噂やヘビースモーカーの影響から息を吐くことが困難になる病気肺気腫で入院したとの噂もあります。
また、笑点で見たよといった人もいます。そんなケーシー高峰は現在どのような活動をされているのでしょうか。また本当に肺気腫で入院中なのでしょうか。
ケーシー高峰さんは2003年に腰部脊柱管狭さく症という病気を発症。2005年には舌が白くなる病気の白板症(舌癌)が見つかり20針から30針ほどを縫う手術を受けています。入院中は医者や看護師にお得のお色気ネタの冗談で笑わせるなどケーシー高峰さんらしさを出していました。
入院中の取材に対しても、ベットの中で女性を抱くことしか考えていないなどのお色気ネタを飛ばして記者を笑わしています。入院中だろうがケーシー高峰さんらしさを貫いています。
白板症(舌癌)から復帰後も「“タン(舌)キュー・ベロマッチ”」といった舌癌をネタにして観客を笑わせるなど漫談家としての活動を続けていました。
そんなケーシー高峰さんは、2016年に笑点の大喜利前に行う演芸人として出演し、お馴染みの白衣姿と聴診器を首にぶら下げた元気な姿と軽やかな喋り口調で健在ぶりを発揮しています。
また過去に「笑点」に出演した際には、東日本大震災後に、起きた福島の原発事故に対して、自身の自宅が福島県いわき市にあることから「放射能の原産地、いわき市よりやってまいりました。
皆様方に放射能をお分けしたいと思います」と世間に批判されそうなブラックジョークを飛ばして話題になりました。そんな笑点の演芸コーナーに多くの出演したケーシー高峰さんの軽妙でおしゃれなお色気ネタが聞けないのは残念というコメントが多くあります。
ケーシー高峰さんについてお話してきました。ケーシー高峰さんは医療用語を黒板で説明しながら所どころにお色気ネタを入る芸風の、医事漫談家として活躍しました。また時にはお色気ネタと時事ネタを絶妙なバランスでいれることもあるなど何かと話題になる言葉をあやつりながら観客を笑わせる医事漫談家でした。
そんな医事漫談家の顔とテレビドラマ・映画などに多く出演し、俳優としての顔も持っていました。そんなマルチの才能を発揮したケーシー高峰さんですが、残念ながら2019年に亡くなられました。白衣姿で軽やかな口調のお色気ネタが聞けないとなると、寂しくもあり懐かしさもあります。
しかし。YouTubeなどの動画があるので、ケーシー高峰さんの医事漫談はいつでも見ることが可能です。今やケーシー高峰さんのような医事漫談をやる芸人さんはいません。お色気ネタが多いケーシー高峰さんですが、何か憎めないそんな存在のある人でした。
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