俳優・松方弘樹の息子たちは2世タレント!俳優の息子たちを紹介
2015/11/02
sura
2015/05/20 更新
2014年11月末に亡くなった日本を代表する名優菅原文太さん。
菅原文太さんは2001年に息子さんであり、同じ俳優の道を歩んでいた菅原加織さんを事故で亡くされています。
その事故とは一体何だったのか、また現在同じ場所で眠る菅原文太さんとその息子さんについてご紹介します。
菅原文太
「ペンの暴力でくるなら、こっちは本物の暴力でいく。カメラマンはともかく、取材を命じた編集長とデスクの2人をブン殴って、骨の1本や2本はヘシ折ってやりたい気分だ!」
これは、70年代に週刊誌に家族写真を掲載されたことに怒りをあらわにした菅原文太さんのお言葉です。なかなか過激な発言ですが、だからこ菅原文太さんの家族に対する配慮や愛情が感じられますね。
菅原文太さんの息子菅原加織さん
本名 菅原 薫
生年月日 1970年2月25日
職業 俳優
恋する女たち(1986年、東宝) - 神崎基志 役で芸能界デビュー。父親のバックアップもあってテレビや舞台、映画(特にヤクザ映画)で活躍。
こちらが菅原文太さんの息子さんですね。
1986年がデビューですので、高校生の時から息子さんは芸能界入りをしていたようです。
数々の映画に出演し、日本の名優たる地位を気づいていた菅原文太さん、そして俳優の道を順調に歩いていたかに見えた息子の菅原加織さん。
しかし、2011年に菅原文太さんの息子である菅原加織さんが、事故で亡くなられてしまいます。
菅原文太さんの息子加織さん
2001年10月23日、東京都世田谷区北沢の小田急小田原線の踏切内で上り電車に撥ねられ、病院に搬送されたが頭や胸を強打しており、翌24日の午前1時すぎに死亡した。事故当時、携帯電話で話をしていたという。また、「酒を飲んでいたようだ」という目撃者[誰?]もいた。31歳没。
菅原文太さんの息子さんである加織さんは、非常に痛ましい亡くなり方でした。
お酒に酔っていたかもしれない上に、携帯電話に夢中で電車の音が聞こえなかったのかもしれません。
普通に考えれば、大きな電車の音が聞こえないほど集中していたのか?というところから、菅原文太さんの息子の加織さんは何かに思い悩んでいたのか……ということも考えてしまいます。
ただ真相は、ご自身やもしくは近しい関係の方でないとわからないですね。
自分より先に息子さんを亡くされた菅原文太さん。
菅原文太さんには想像を絶するほどの辛さがあったと思いますが、やはり役者魂というのでしょうか、久々の主演とともに復帰を果たされたました。
2001年(平成13年)に俳優の長男菅原加織を鉄道の踏切事故で亡くし、周囲に「もう仕事したくない」と漏らしていたが、2003年(平成15年)公開の映画『わたしのグランパ』で復帰。9年ぶりの主演を果たした。
わたしのグランパ
息子さんが亡くなられた後、しばらくお休みされていた菅原文太さんの復帰作の映画です。
孫娘とお祖父さんを軸にした家族の物語ですね。
息子さんを始めとして、ご家族を大事にされていた菅原文太さんらしい復帰作だったのではないでしょうか。
2007年に菅原文太さんに病気が発覚します。
2007年4月に入院。脚の付け根の動脈から管を差し込んで抗がん剤を入れる治療を3週おきに3回行うとともに、並行して放射線治療も開始。週5回、計23回受けた段階で改めて内視鏡検査をしたが、幸いがんは見つからなかった。特殊な放射線である陽子線治療を加え、3か月近い入院治療を終えた。
3ヶ月ほどでがんを克服した菅原文太さん。副作用も少なかったおかげで、仕事もマイペースに続けていたそうです。
農作業中の菅原文太さん
菅原文太さんは晩年は農作業に従事するかたわら、ラジオのパーソナリティをつとめたり、様々なことをされていたようです。
しかし、映画については東日本大震災が発生し、クランクイン直前だったものを中止しています。
「どういうテーマであれ、映画を撮っている時ではない。監督も同じ考えだった」とクランクイン直前に起こった東日本大震災が大きな理由だったとあらためて説明。「こういう時代にどういう映画をどんなふうに出すのかというのは難しい」と震災以降、劇映画の存在理由が見出せないでいることを口にした。
仁義を感じる考え方で、映画やテレビの中の菅原文太さんのイメージしかありませんが、菅原文太さんは非常に情に厚い方であったというのがよくわかりますね。
ストイックな男性だったのではないでしょうか。
菅原文太さんも、息子さんの死の13年後に81歳で亡くなられました。
同年には、同じように日本を代表する名優の高倉健さんも亡くなり、昭和の巨星が二人も立て続けに亡くなるという非常にショッキングなニュースでした。
太宰府天満宮
太宰府天満宮は、菅原文太さんとその息子の菅原加織さんが眠る地です。
加織さんは生前、神道を信仰しており、文太さんは彼の遺骨を神道の聖地に納骨することにした。それが、福岡県の太宰府天満宮だった。同じ“菅原”姓の菅原道真を祭神としてまつり、全国天満宮の総本社であるこの地に、息子を眠らせたのだ。
「納骨からまもなく、文太さんは天満宮の近くにマンションを購入しました。“息子の側にいたいから”って、仕事がないときはここで暮らし始めたんです。息子さんの眠る祖霊殿にも、夫婦でよく参拝されていました」
息子さんが亡くなった後は、よくお墓参りをしていたという菅原文太さん。その行動には深い息子さんへの愛を感じます。
数カ月に一度は加織さんのもとを訪れ、“息子との時間”を過ごしていた文太さん。その時が来たら「加織さんの眠るところで」と周囲には告げていたという。
願い通り、都内の病院で息を引き取ると、遺体は福岡に運ばれた。太宰府天満宮祖霊殿で30日に家族葬を終え、1日に荼毘に付された。
今は同じ場所で眠る菅原文太さんと息子の加織さん。
息子さんと同じお墓に入られ、今は二人で仲良くお話しているのでしょうか。
菅原文太さんが自分の生まれ故郷の宮城県でもなく、福岡の太宰府天満宮を埋葬の地に選んだ理由は、すべて息子さんと一緒にいるためでした。
自分より早くに息子さんを亡くされた父の想いは、非常に辛いものでありながらも、深い想いだったのでしょう。
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