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名優高倉健!その人気映画の網走番外地って本当にあるのかな?

昨年11月に亡くなった名優高倉健!もうすぐ一年が経とうとしてますね。人に対する思いやりなど気配りのひとだった高倉健!その代表作はたくさん有ると思いますが、若い頃の網走番外地もその一つかもしれませんね。網走番外地の裏話などを探ってみましょう~

網走番外地 高倉健編とは

網走番外地 

高倉健と若い頃の田中邦衛

「網走番外地」(あばしりばんがいち)は、伊藤一の小説です。作者が網走刑務所で服役した経験をもとにして書かれ、1956年に出版されました。1959年には日活で映画化され、1965年からは東映で高倉健主演による映画シリーズ化がなされ、18作が制作されました。

冬の網走駅。汽車を降ろされた男たちは、トラックに乗せられ網走刑務所へ護送される。受刑者であり主人公の橘真一も腰縄で他の囚人たちとつながれていた。入所後、雑居房に入れられた橘は、殺人鬼“鬼寅”の義兄弟と称して幅を利かせていた牢名主の依田や同じ新入りの権田と衝突、喧嘩の責任をとって懲罰房に送られるのだが・・・

網走番外地 日活編

網走番外地(日活)

ヤクザの石塚はケガの手当を受けた医師の養女・みち子と愛し合うようになるが、傷害罪で逮捕され、最果ての網走刑務所に送られる。みち子は親の反対を押し切って石塚と結婚し、看護婦をしながら彼の出所を待ち、石塚はみち子の手紙に励まされて更生して出所する。高倉健の網走番外地とは全然違う純愛映画となっていますけど、こちらの網走番外地が原作に近いと言われています。
出演浅丘ルリ子 小高雄二

網走番外地ってほんとうにあるの??

網走刑務所が網走番外地という映画の舞台と言えると思います。実際に網走刑務所は実在していて、現在では博物館になっているようです。

昭和40年代の大ヒット映画シリーズ「網走番外地」中、第1作を含み10作を監督した石井輝男氏は、まさに「番外地の生みの親」といえる。

出典:http://www.kangoku.jp

網走番外地映画監督 石井輝男氏の墓碑

高倉健氏が「安らかに 石井輝男」と碑文をしたためた墓碑

網走刑務所って?

網走番外地 網走刑務所の受刑者達

北海道を開拓する受刑者

明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するために、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めたのです。明治23年に小さな漁村の網走の地に刑務所ができました。120年にもおよぶ網走刑務所の始まりですね。

広大な北海道を開拓して、ロシアからの攻撃を守る基地としても重要視されたのでしょう。

網走番外地 網走刑務所の受刑者達

高倉健と網走番外地

網走番外地と言えば高倉健!高倉健と言えば網走番外地!あまりにも有名ですよね。東映によってシリーズ化された網走番外地は最初は三國連太郎が企画したそうです。

豪雨のハイウェイで1台の囚人護送車がハンドルを切り損ない崖から転落した。死者はなかったが白人のジャクソン(トニー・カーティス)と黒人のカレン(シドニー・ポワチエ)の2囚人が脱走した。2人は互いに手首と手首を4フィートの鎖でつながれていたが、心は双方とも相手に対する人種的偏見と憎悪で固まっていた。時をおかずギボンス警部の率いる武装警官隊とルー・ガンスを隊長とする民間人徴集隊が協同で捜索をはじめた。

三國連太郎が網走刑務所から囚人が脱獄を企てた計画があったことを知り、この囚人脱走計画の事件をモデルに、自ら『網走監獄の脱走』を計画したのです。

出典:https://ja.wikipedia.org

網走番外地 1作目高倉健出演

駆け出しのやくざ橘真一(高倉健)は、敵対する組の親分を斬って網走刑務所に収監されます。野外作業に向かう途中、脱走を企てた宿敵の権田権三(南原宏治)がトラックから飛び降り、手錠でつながれていた橘も引きずられてしまう。いがみ合いながらも逃走を続けるうち、橘はこのまま病気の母に会いに行こうと決意します。手錠の鎖を列車にひかせて切断に成功する。しかし、谷底に転落した権田を見捨てられず、救助に向かうのです。

監督の石井輝男がアメリカ映画の「手錠のままの脱獄」を元にしたとも言われています。

網走番外地 2作目高倉健出演

網走刑務所を出所した橘真一(高倉健)は、途中で銀行強盗事件に巻き込まれ犯人にされてしまい無実を証明すべく真犯人を追う。

伊藤一の小説からは題名を拝借しただけで、当初の企画がギャング物の延長である以上、東映にギャング物というドル箱を打ちたてた石井輝男に白羽の矢が立った。石井は、かねてより温めていたスタンリー・クレイマー監督の米映画 『手錠のまゝの脱獄』(1958年)を巧みに換骨奪胎して脚本を書き、主演には石井とのコンビ作を連打していた高倉健を起用して映画化された

出典:https://ja.wikipedia.org

「手錠のままの脱獄」

高倉健出演の網走番外地の元になったスタンリー・クレイマー監督の手錠のままの脱獄より

高倉健の網走番外地は最初の構想では、モノクロ映画だったそうです。それに対して高倉健が社長に絶対カラーで撮ってくれと直訴したのですが、受け入れて貰えなくて主役を交代させる話にもなったそうです。第一作がヒットしたことと、企画窓口である俊藤浩滋の口利きでやっとから撮影が許可されたそうです。

続 網走番外地ポスター

2作目ポスターの高倉健

その後の網走番外地と高倉健

その後の網走番外地はヒットシリーズとして18作まで作られます。1作目から10作目までは石井輝男監督、 11作目からは他の監督が作っています。網走番外地の基礎は石井監督が築いたのですね。

酷寒の地、北海道・網走刑務所に収容される囚人たち。最初に辿り着いたのは原野の中にポツンと建つ網走駅。これは実際の網走駅ではなく、同じ釧網線沿線の藻琴駅が撮影に使われたという。うらぶれた木造の駅舎が最果て「網走」の雰囲気にぴったりだったからだろう。

出典:http://abashiri.jp

網走の駅を使って撮影されたのではないのですね?あの冒頭での吹雪の駅のシーンはてっきり網走駅だと思っていました。網走と言えば極寒の地の駅だと言うイメージがありますからね。

網走番外地の網走駅となった藻琴の駅舎。

同じ釧網線沿線の藻琴駅が撮影に使われたという。うらぶれた木造の駅舎が最果て「網走」の雰囲気にぴったりだったからでしょうね。

高倉健は網走番外地で不動の人気を得ます。。網走番外地と言えば高倉健!と言われるまでの代名詞になったのです。

任侠映画を経てから高倉健は日本を代表する男優になります。それは山田洋次監督と知り合ってから、高倉健の魅力がまが広がったのではないでしょうか?

高倉健としても、長年続いたヤクザ映画から久々の人情ドラマであり、また役者として再起を図るために参加しており、転換点となった作品である。それを連想させる台詞も劇中に存在する。
刑務所から出てきたばかりの勇作(高倉健)が、食堂でビールを飲み干し、ラーメンをむさぼるように食べる場面(カツ丼も注文しているが、実際に食べているのはラーメンのみ)では、高倉は実際に2日間何も食べずに、この撮影に臨んだという。

出典:https://ja.wikipedia.org

高倉健も、任侠映画の高倉健。網走番外地の高倉健!とういう肩書きから逃れたかったのかもしれませんね。逃れると言うより、演技の幅を広げたかったのかもしれませんね高倉健は!

在りし日の高倉健

もうすぐ高倉健がなくなってから一周忌になります!

これからも私たちの心の中では網走番外地の高倉健!そしてあの優しい心遣いの高倉健!寡黙な男優ととして生き続けてくれることでしょう。

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