記事ID28762のサムネイル画像

    大河ドラマで放映された軍師官兵衛!もう1度あらすじを見てみよう

    昨年NHK大河ドラマで放送された軍師官兵衛!岡田准一が官兵衛役でしたね。放送終了してから半年立ちますが、ご当地は今どうなんでしょう?もういちど軍師官兵衛の魅力と物語のあらすじを見てみたいと思います。あらすじを元にご当地の様子も見てみましょう

    軍師官兵衛ってどんなひとだったの?

    岡田准一とはイメージ違いますよね 軍師官兵衛って

    黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名でした。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となり、キリシタン大名としても有名です。
    実名は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高と言いましたが、一般的には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)が知られてます。
    剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)としても広く知られていて、豊臣秀吉の側近として仕えました。調略や他大名との交渉などに活躍しまし、竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と言われています。

    出典:http://ja.wikipedia.org

    とっても凄い人なんです。戦国時代でありながらキリシタンだったのですね。もし軍師官兵衛に欲があったら天下を取っていたとも言われてます。豊臣秀吉も恐れていたそうですよ。あらすじにも出てきますけど。

    軍師官兵衛 あらすじ①

    ■黒田官兵衛の誕生
    天文15年11月29日(1546年12月22日)辰の刻(午前8時)、姫路城の城主・小寺職隆(黒田職隆)に子供「万吉」が生まれた。この万吉が後の黒田官兵衛である。
    黒田官兵衛が生まれたとき、姫路城は雪で覆われていた。これは、英雄が生まれる吉兆が出ていたのだという。

    出典:http://netabare1.com

    軍師官兵衛誕生する ここから軍師官兵衛のあらすじが始まります

    黒田勘兵衛の家系
    黒田勘兵衛の黒田家は、元を正せば、宇多天皇の末裔とされる名家・源氏で、源成頼の時代に近江国蒲生郡佐々木(現滋賀県近江八幡市)に居を構えたことから、佐々木の姓を名乗るようになる。
    やがて、佐々木家は京極家と六角家に分家する。京極家の京極宗清(きょうごく・むねきよ)が近江の黒田村に居を構えたことから、京極家から分家し、黒田姓を名乗るようになった。
    黒田家は京極家に仕えていたが、1511年(室町時代)に黒田官兵衛の曾祖父・黒田高政が手柄を立てるために「船岡山合戦」で抜け駆けして、軍令に背いたため、将軍・足利義稙の怒りを買った。
    佐々木氏の謝罪によって曾祖父・黒田高政は許されたが、近江から追放となり、曾祖父・黒田高政は同族を頼って、備前の福岡村(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へと移り住んだのです。
    後に黒田家が治める筑前(福岡県西部)が福岡県という名称になったのは、黒田家が備前(岡山県)の福岡村に土着したことに由来します。

    出典:http://netabare1.com

    これが軍師官兵衛の生まれた所と黒田家の由来のあらすじです。あちらこちらへと転居をしていますよね。
    戦国時代ってそうなんでしょうね

    軍師官兵衛あらすじ②

    備前時代の軍師官兵衛のあらすじが始まります

    永禄2年(1559年)12月28日、黒田官兵衛が14歳の時に母親・明石岩(岩姫)が病死する。黒田官兵衛は母親の死を切っ掛けに、引きこもるようになり、古今和歌集などを読みふけり、自身も和歌や俳句を詠むようになる。

    出典:http://netabare1.com

    お母さんの死を詩に軍師官兵衛は自分の気持ちを詠んでいたのでしょうね

    永禄4年(1561年)、父・黒田職隆が新館を建てたので、御着城の城主・小寺政職が新館を見学するため、鷹狩りの帰りに姫路城へと立ち寄った。
    黒田勘兵衛は父・黒田職隆の命令で小寺政職の配膳係を務めたところ、小寺政職は黒田官兵衛の機敏な動きを気に入り、黒田勘兵衛を18石で近習に取り立て、御着城へと連れ帰りました。

    出典:http://netabare1.com

    永禄5年(1562年)、黒田官兵衛は17歳で父・黒田職隆に付き添い、近くの豪族を討伐し、初陣を果たした。
    また、初陣と同じころ、黒田勘兵衛は元服して、名前を幼名「万吉」から、「勘兵衛」へと改めた。このとき、黒田官兵衛は小寺政職から「小寺」の姓を賜り、小寺官兵衛と改名した。

    出典:http://netabare1.com

    戦国時代って色々名前を変えますね。軍師官兵衛も結構変わってますよね。備前の頃のあらすじの終わりです

    初めてで緊張する中、播磨攻略法を説く官兵衛をみて、その弁舌を気に入った信長は”圧切”という名刀を授ける。

    軍師官兵衛あらすじ③

    清洲会議までのあらすじの始まりです

    長政初陣

    天正10年(1582年)4月、羽柴軍が境目7城の宮地山城を攻めたとき、黒田官兵衛の長男・黒田長政が初陣を果たし、敵兵1を討ち取った。このとき、黒田長政は15歳であった。

    出典:http://netabare1.com

    軍師官兵衛は数々の戦いをいたします。三木城の戦い。この戦いは軍師官兵衛ともう一人の軍師竹中半兵衛の活躍で勝利します。

    そのほかにも備中高松城の水攻めなど有名な戦いがありますね。この戦いも軍師官兵衛の働きで勝利するのです。あらすじですから全部の戦い記したら大変です。

    謀反を起こして織田信長を討ち取った明智光秀の天下は、わずか11日間で終わった(明智光秀の3日天下)。明智光秀の討伐が終わると、次の問題は織田信長の後継者選びであった。

    出典:http://netabare1.com

    有名な清洲会議ですね~~ この時軍師官兵衛はどうしたのでしょうか・・?

    (注釈:角川太閤記によると、清洲会議のとき、羽柴秀吉は黒田官兵衛を清洲城へ呼び寄せていたようだが、黒田官兵衛が清洲会議でどのような働きをしたかまでは分からない。)

    出典:http://netabare1.com

    あららら・・・軍師官兵衛は清会議ではあまり活躍しなかったようですね~~ 活躍したようにあらすじ変えましょうかね 笑 それは出来ませんねぇ。明智光秀を討つまでのあらすじの終わりです。

    軍師官兵衛あらすじ④

    大阪城築城から四国統一までのあらすじの始まり

    羽柴秀吉は黒田官兵衛を大阪城の普請総奉行(建築責任者)に任命し、天正11年(1583年)9月1日から大阪城の建設を開始した。
    ただ、黒田官兵衛が大阪城の普請総奉行(建築責任者)を担当したのは、天正11年(1583年)9月3日から天正13年(1585年)4月までの「1期工事」と呼ばれる期間だけである。

    出典:http://netabare1.com

    あらすじでは一期工事だけの監督だったのですね

    羽柴秀吉は、長宗我部元親による四国統一を認めず、長宗我部元親に讃岐(香川県)と伊予(愛媛県)の2カ国を割譲し、羽柴秀吉の傘下に入るように求めた。
    しかし、自分の力で四国を統一した長宗我部元親は、讃岐(香川県)の返還を拒否し、「伊予(愛媛県)1国の割譲になら応じる」との姿勢を貫いた。
    このため、羽柴秀吉は四国征伐を決定し、軍師・黒田官兵衛に四国征伐の先鋒隊を命じたのである(黒田官兵衛の四国征伐)。

    出典:http://netabare1.com

    軍師官兵衛も忙しいですね~ 西へ行ったり南へ行ったり、日本統一をしようと言うのですから仕方ないでしょうけどね。あらすじだと簡単になりますが、実際は長い年月がかかるのでしょうう。軍師官兵衛が四国統一をするまでのあらすじです。

    軍師官兵衛あらすじ⑤

    九州時代のあらすじの始まり

    天正17年(1589年)5月、豊前(福岡県東部)6郡の情勢が落ち着くと、黒田官兵衛は嫡男の黒田長政に家督を譲った。このとき、黒田官兵衛は44歳で、黒田長政は22歳であった。
    豊臣秀吉は常々、「まことに怖いのは、徳川と黒田である。徳川は大人しいが、黒田のかさ頭には心を許すことができない」と言っており、黒田官兵衛はまだ44歳であったが、豊臣秀吉に睨まれないために、早々と家督を黒田長政に譲って隠居したのである。

    出典:http://netabare1.com

    九州を統一した軍師官兵衛は家督を長政に譲ります。これは秀吉に服従していると思わせるためだったのですね。さすがは軍師官兵衛!

    これが軍師官兵衛のあらすじです。本当はまだまだ物語は続くのですけどねぇ。あまり長々と書いたらあらすじではなくなりますので。すこしだけ割愛しました。(大部分だけどね)

    夫婦役の中谷美紀と岡田准一の軍師官兵衛

    ドラマでの軍師官兵衛って

     全50話の平均視聴率は15.8%で、大河ドラマ史上、「平清盛」(12年/松山ケンイチ主演)=12.0%、「花の乱」(94年/三田佳子主演)=14.1%、「竜馬がゆく」(68年/北大路欣也主演)=14.5%、「八重の桜」(13年/綾瀬はるか主演)=14.6%に次いで、5番目に低い視聴率となった。

    出典:http://news.livedoor.com

    軍師官兵衛の視聴率はあまり良くないようですね。何か原因があったのでしょうかね

    黒田官兵衛は大河にありがちな「実はいいやつ系主人公」路線で行くかと思ったらこの終盤に来て黒い謀略家路線に入って超面白い

    出典:http://matome.naver.jp

    あらすじとは少し違うのかな?

    なにを思うのか軍師官兵衛

    全体を通して主人公である黒田官兵衛というキャラクターに一本の芯が通っていないのが非常に残念。それっぽいシーンをつまみ食いしているからか、とにかくシーンごとにまるで別人のようにコロコロと人格が変わる。

    出典:http://matome.naver.jp

    「本能寺の変」では、官兵衛が秀吉に「好機が訪れましたぞ」と進言するシーンもあるが、「有名なセリフなので、これが言えるならと(官兵衛役に)手を挙げた」と語る岡田は、「悪そうに言えればいいなと思っていたので悔いはない」と仕上がりに満足げ。

    出典:http://matome.naver.jp

    戦国時代ですからね・・天下統一のチャンスですから

    史実を忠実に再現したドラマと言う謳い文句なので、あまり格好良くは描けなかったのでしょうね。食うか食われるのかの戦国時代ですから。自分の子供を相手方に嫁入りさせたり人質に取られたりしたのですからね。きれい事では済まされない時代だったのでしょう。あらすじで見えてきた軍師官兵衛は、以外とお人好しという感じなのですけどね。まあぁあらすじですから大まかな所しか見えませんけど。

    あらすじでは見えなかった軍師官兵衛ってどんな人だったのでしょうね?猜疑心が強くてあまり人を信用しなかったのでしょうか?あらすじでは良いところしか見えませんけど史実はどうなんでしょうか?あらすじとは違う軍師官兵衛が見えてくるでしょうね。

    だけど軍師官兵衛は凄い人だったと思います。数々の戦いを経て自分の力を試し、天下統一を行おうと思えば出来たのにしなかった。そこの所は偉いと思いますけどね。
    歴史を調べたら面白いですよね。軍師官兵衛の足跡をたどって、旅でもしてみたら面白いかも・・

    関連する記事

    この記事に関する記事

    TOPへ