2016/08/27
sakura26
美空ひばり
出生名 加藤 和枝(かとう かずえ)
出生 1937年5月29日
出身地 神奈川県横浜市磯子区滝頭
死没 1989年6月24日(満52歳没)
学歴 精華学園高等部卒業
ジャンル 歌謡曲、演歌、ジャズ
職業 歌手、女優
1946年、9歳でデビュー
1954年、第5回紅白歌合戦初出場「ひばりのマドロスさん」を歌う
1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会を務める。白組は宮田輝。歌は「人生将棋」
1974年、「紅白歌合戦」出場拒否を宣言。NHKと対立
1977年、NHKと和解、前年帝劇で開いた「美空ひばりショー」の舞台中継を放映。しかし紅白は否定
1979年、7年ぶり、30回記念のNHK「紅白歌合戦」に特別出演「ひばりのマドロスさん~リンゴ追分~人生一路」メドレーで歌う
1981年、武道館デビュー35周年記念リサイタル。ワン・ステージで50曲歌う
1985年、芸能生活40周年記念リサイタル
1986年、芸能生活40周年記念ドラマ『熱血先生・まるでセンチな乙女のように』(フジテレビ)で主演
1989年、ニッポン放送10時間ラジオ「美空ひばり、感動のこの一曲」を自宅から放送後、順天堂病院に入院
同年、永眠
同年、女性初の国民栄誉賞を受賞
美空ひばりさんと言えば、知らない人は少ない昭和を代表する歌姫ですね。そんな美空ひばりさんのエピソードや記念館について調べてまいりたいと思います
死後、記念館がオープンするほどに活躍していた美空ひばりさん。そんな美空ひばりさんには記念館だけではなく数々のエピソードが残っています
橋幸夫が美空ひばりに「あなたタバコ吸うの?」と聞かれて「はい」と、当時かなり高価で入手困難な輸入タバコの銘柄を答えた。
後日美空ひばりに家に呼ばれて橋幸夫が行くと。
戸棚という戸棚にギッシリと、その銘柄の煙草が詰まっていた。
これからはここに来たら、自由にこれを吸えと言われたそうです。
その頃はまだ「戦後」を引きずっていた時代で、ただの輸入煙草でも「洋モク」と呼ばれて珍重されていました。
それを日常的に吸っていた橋幸夫も凄いけど、たまにしか来ない来客一人のために
家中を貴重な銘柄の煙草で埋め尽くした美空ひばり。
煙草代だけじゃなくて、それを捜し回るだけの人件費も相当かかったでしょうね。
まさにやることが往年の大スターです!
無名時代の牧伸二がひばりの地方巡業公演で前座を務めていた際、牧の漫談が会場を湧かせる場面をひばりとその母(加藤喜美枝)が見てこれを気に入り、ひばり母子は「牧さんはすぐにスターになりますよ。見ていてご覧なさいな」と関係者に後年のブレークを予見する発言をしていたという。
人を見る目が鋭く、幅広い交友関係を持っていた美空ひばりさん。記念館かオープンするのもうなずけますね。他にも美空ひばりさんのエピソードは多数あります
1981年、母・喜美枝が亡くなった際、火葬場にて最後の別れが終わった後、母の入った棺がかまどの中に入る際にひばりは叫び声をあげ、一緒にかまどの中に向かおうとし、参列していた高倉健と萬屋錦之介に止められた。
ひばりは基本的に芸人を相手にしていなかったが、息子の和也が大ファンでもあったとんねるずだけは認めて晩年は弟のように可愛がって2人のことをタカ、ノリと呼び、2人だけはひばりの親しい友人などしか呼べなかった愛称のお嬢と呼ばせていた。テレビでの共演は『とんねるずのみなさんのおかげです』に、VTRで会話をしたのと、ひばり50歳の時にとんねるずがお祝いに駆けつけ、ひばりは両頬にとんねるずのキスを受けている。ラジオでは『とんねるずのオールナイトニッポン』にひばりが乱入し2時間ジャックした。
美空ひばりさんの死後、オープンしたという美空ひばり記念館。では美空ひばり記念館とはどういった建物なのでしょうか?
人をお招きすることが好きだった
ひばりの思い出の詰まった
自宅ならではの
温かい雰囲気を
四季折々の花が咲くお庭等
ひばりが愛した景観を直に
体感してください。
美空ひばりさんの自宅が記念館としてオープンし、一般公開されたのだとか。しかしこの記念館がオープンする前にも色々あったようです
美空ひばり記念館として建てたられた嵐山美空ひばり座だが、建てたのは加藤ではなく、ひばりの命の恩人と呼ばれ後見人となった九州在住の人物。当初、加藤が記念館の設立を企画。ひばりの出身地である横浜と第2の故郷となった京都のどちらにしようか選定していたが、その前に後見人となった人物がひばりの大半の遺品を持ち出して先に京都嵐山にオープンしてしまったため、仕方がなくひばりプロダクションも業務提携という形で参加になった。
その後、嵐山ひばり座はファンの高齢化が進み客足が鈍り、負債が膨らんだため2006年にひばりプロダクションが買い取った。それでも、負債が膨らみ続けたため2011年に吉本興業と京楽産業.の合弁会社KYORAKU吉本ホールディングスに加藤が業務提携を持ち掛けるなど尽力するが、2013年5月に嵐山ひばり座は閉館に追い込まれた。
こちらが嵐山にある美空ひばりさんの記念館です。一度は閉館してしまいましたが、数々の人の尽力によって新たに記念館として再オープンしたのだとか
それに併せ、東京青葉台にあるひばりの自宅を記念館として一般公開するとともに、根強いファンの後押しもあって太秦映画村にひばり座の移築計画が水面下で行われ、京都太秦 美空ひばり座として再オープンに至っている。
記念館として、一度は閉館まで追い込まれながらも復活した美空ひばり記念館。そんな美空ひばり記念館について世間ではどのような声が挙がっているのでしょうか?
ひばりさんがお亡くなりになるまで生活されていた住居の一部が先日より一般公開されたとのことで、早速拝見させてもらって来ました。案内された庭に有る桜の大樹が見事でした。さぞかし桜の満開の頃は圧巻でしょうね。部屋に上がり、お食事時などに使用されていたとの和室で「トコロテン」を頂き、隣の仏間で位牌を拝ませて頂きました。貴重な体験をさせて頂きました。関係者の皆様、どうも有難うございました。
際に訪れた人々は、「会いに来たよ!」「まるでひばりさんがいるみたい」と興奮気味。自宅がファンの喜びであふれていく様子を、ひばりさんも天国から見守っているに違いない。
夕刊フジの2007年06月01日の記事によりますと「休館中の京都・嵐山の「美空ひばり館」を息子でひばりプロダクション社長加藤和也氏(36)が約18億円で買い取って来春、再オープンすることになった」のだそうです。ばんざい!
以上、美空ひばりさんのエピソードを交えつつ美空ひばり記念館について調べてまいりました。
一度閉館まで追い込まれましたが、多くのファンや関係者の力によって再オープンした美空ひばり記念館。それだけ美空ひばりさんは生前から愛されていたのですね。だからこそ記念館がオープンしたのだと思います。
そんな美空ひばり記念館の今後に期待がかかります!
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