2021/12/10
kiiroitori
明治大学付属中野中学校・高等学校
中森明菜さんの曲は素晴らしい!中森明菜さんの出身地は
東京都。出身校は、デビューの関係でこちらの高校定時制を
中退されています。なので、地元の中学が最終学歴のようですね。
ただ声が低いというのと、少し暗い感じが
あって不良アイドルとして売り出された
のだと思います。
本人も「兄弟の中で私だけが良い子だった」
とおっしゃっていました。
中森明菜さんの曲は素晴らしい!中森明菜さんには
兄弟姉妹が4人いるんですね。5人兄弟姉妹の末っ子に
生まれた中森明菜さん。生活はかなり厳しかったようです。
中森明菜さんが三歳の時にお母様が、働きにでられて
バレーを習わすために必死だったというエピソードがあります。
その甲斐あって、あのパフォーマンスが出来ていたわけですね!!
中森明菜さんの曲は名曲ばかり!!
中森明菜が1982年にデビューしてからは、同期にデビューしたアイドル達を驚かすほどの、ヒット曲の連続でした。なので、当時同期だったアイドル達は、中森明菜さんだけは別格に!付き合いにくい関係でもあったようです。なんせもうスーパースターすぎて・・・
同期なのに、先輩?ライバル?のように思えたのかもしれません。
当時中森明菜は同期のアイドルとは別格で、アイドルでありながら歌手中森明菜として演歌の大御所と賞争いや大先輩とライバル視されたりしてました。
キョンキョンはそこまででは無いですが、他のメンバーとは別格でした。
また、松本伊代が中森明菜を嫌っているのは有名な話しで伊代本人がテレビで良く話してますね。
そんな時いつも、早見優や堀ちえみが引き攣りながらフォローしてますね。
明菜自信、群れをなす事があまり好きじゃないタイプなのだと思いますが、他の人より忙しいと言うのも理由の一つだと思います。
でも1番の理由は仕事に対する思いだと思います。明菜は決して裕福ではない大家族の元で育ち幼い頃から「私が歌手になって家族を助ける」その思いで芸能界に入ったので、松本伊代のように「あの子は嫌い」「この子とは仲良し」みたいなおままごとのような事やってる場合ではなかったのでしょうね。
伊代は単なるアイドルでしたから、ある年齢に達したらアイドルでは通用しません。
明菜の様に歌の才能が有るわけでも無くキョンキョンの様に女優の道に行く才能も無いので、仕事を選ばず今は、通販番組で頑張ってますね。
中森明菜さんの名曲は素晴らしですよね!!
そんな、同期に別格扱いされながら、中森明菜さんは、歌手への階段を着々と上っていかれました。そんな時によく比べられたのが、歌手の松田聖子さん。聖子さんとは、毎回のように歌番組で共演されてましたし、ベストテンやランキング番組での話題曲のランキング争いにもなりました。どちらも同じくらいヒット曲を出していたので、先輩である聖子さんに対してはかなりプレッシャーやライバル心はあったと思います。
松田聖子と中森明菜である。この二人は、同じアイドルではあるが、その音楽性、容姿の印象、ファンの属性など、すべてが対極にあった。他の言い方をすれば、「王道と邪道」、「陽と陰」などともいえるだろう。
松田聖子はアイドルの王道をまっしぐらに進んでヒット曲を放ち続けた。彼女のファンは、聖子ちゃんカットというヘアーカットが流行ったように、女性のファンが多かった。いまのアイドル=オタクというイメージとは、だいぶ異なっていた。
おばさんになることを拒否し、アイドルを一生背負って生きることを決意しているからに違いない。80年代は、初々しいアイドルが生きられた時代であった。そんな時代の名残りをいまでも感じさせてくれる。 それが松田聖子というアイドルである。
はじめから松田聖子の対極にあったのは言うまでもない。彼女は1982年、「スローモーション」でデビューした。当時のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」だそうである。なんとも微妙にださい感じだ。
しかし、これが中森明菜のイメージを形成していく。いわゆる、ヤンキー気質な蓮っ葉な女の子である。大人の社会を斜め上から見ている感じである。大人の言うことなんて聴きゃしない。そんなイメージは、どんどん膨らんでいく。
彼女は優等生タイプより落ちこぼれタイプに人気があったのではないか。歌の内容も、2枚目のシングル「少女A」に代表されるように大人びた少女の気負った様が妙に似合った。ちなみに「少女A」は17歳の少女となっている。
中森明菜さんのヒット曲満載!!
中森明菜さんと松田聖子さんはこんな風に比較さてれいたんですね。やはり、松田聖子さんは現在も進行中アイドルの象徴と言えるのかもしれません。一方、中森明菜さんは、休業したり、復帰したりの繰り返しでとても心配ではあるのですが・・・
中森明菜さんのヒット曲満載!!
1982年に「スローモーション」でデビューしてから、出すシングルは必ずヒットしていた曲の中で
もっとも代表的な曲を3曲紹介してみます。みなさんきっとご存知だと思いますよ!!
歌唱については、「不良っぽくもありながら、どこか哀しげな
ヴォーカル・ワークに心揺さぶられるナンバー。」と批判。
加えて、中森がアイドル歌手としての地位を強固なものとした楽曲であると批評した。
少女A」は、オリコン週間シングルチャートの1982年8月9日付で初登場40位を記録後、
1982年10月18日付で最高順位5位を記録し、およそ40万枚の売り上げとなった。
デビュー曲とは異なり、不良のイメージがついた曲!
中森明菜色に染まります!!
音楽評論家の堤昌司は「十戒 (1984)」について
「売野雅勇ツッパリ路線の集大成ともいうべき作品。」と指摘!
『ザ・ベストテン』では、1984年8月16日から1984年9月13日の
5週連続で1位を記録し、1984年度の年間総合ベストテンでは、第8位を記録した。
1984年8月6日付で初登場・最高順位ともに1位を記録し、
1984年8月27日付でも通算2週目となる1位を記録した。
この曲の最初の振り付けが印象的!
今でいう”イナバウア”ですよ・・・
1986年に行われた第28回日本レコード大賞で日本レコード大賞を受賞した。
前年度(1985年)に行われた第27回日本レコード大賞での「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」
に続いて、中森は2年連続となる大賞受賞を果たした。
『ザ・ベストテン』では、1986年2月20日から1986年4月3日の
7週連続で最高順位1位を記録した。
上半期ベストテンでも1位を記録し、1986年の年間総合ベストテンでは、第2位を記録した。
衣装と、かつらが印象的でした。
中森明菜さんのアイデアの衣装だったそうです。
振り付けもとても変わってましたね!!いまでも
カラオケでよく歌われる曲です。
オリコン週間シングルチャートでは、1983年6月13日付で初登場・
最高順位ともに2位を記録後、計4週連続で2位を記録した。
1983年度のオリコン年間シングルチャートでは、19位を記録した。
TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』では、1983年6月30日と1983年7月7日の
放送にて、2週連続で1位を記録した。
この曲!当時中森明菜さんが恋をしていた彼に向けてではなかったのかなと、
勝手に思っているのですが・・・・でもすごく歌詞が好きなので、みなさん聴いてみて下さい!
中森明菜ファンなら絶対今後も歌手活動の復帰を願うに違いありませんが、現在はどうなのでしょうか?昨年の紅白に出演し、5年ぶりにリリースされた新曲「Rojo-Tierra-」。私も、紅白で復帰したんだと思い、喜んで観ていました。でもあれ以来メディアで見かけることはなく、やはり体調はすぐれないのでしょうか?紅白で見せた、精一杯の笑顔と、彼女の意欲を信じて、本復帰を待ちたいと思います。
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