2023/12/15
take79
落語家であり、笑福亭仁鶴の3代目でもあります。先に2代の笑福亭仁鶴がいる模様ですが、詳細は不明です。なお”仁鶴”という芸名は、入門してからしばらく後になり決まったといいます。師匠である6代目笑福亭松鶴(しょかく)が、タクシーで角を曲がる際の『二番目の角』という指示から発案したとされています。
この点は、書籍にも書かれているでしょう。ただし、笑福亭仁鶴本人は2013年に聞き書き(話し手の言葉を録音して、一語一句を全て書き起こす手法)において、「あれは冗談」と語っていました。もしかしたら、別の命名の理由があるのかもしれません。
1960年代後半から1970年代前半にかけ、『オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に』等の深夜ラジオに出演しました。これが、若者の人気を得ています。番組中に発した「どんなんかな~」という言葉で、笑福亭仁鶴は途端にブレイクしました。
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笑福亭仁鶴は天国に旅たちましたが、彼は病気だったのでしょうか。次に、笑福亭仁鶴の死因について見ていきたいと思います。
笑福亭仁鶴は、2021年8月17日に大阪府内の自宅において84歳で死去しました。訃報については、3日後の8月20日に吉本興業から発表されています。様々に落ち着いてからの発表になったものと考えられるでしょう。
笑福亭仁鶴の死因は、骨髄異形成症候群でした。これは、赤血球や白血球、血小板等の血液細胞のもとになる造血幹細胞(ぞうけつかんさいぼう)に異常が起き病です。そして、正常な血液細胞が製造されなくなってしまうという特徴があります。
笑福亭仁鶴は、妻(2017年没)や愛弟子を亡くしたことによっての心労から、体調不良が続いていました。そのため、レギュラー番組への出演は見合わせていたのです。そして体調不良での休演が続いていましたが、公表はされていませんでした。
上方落語の重鎮である笑福亭仁鶴の、経歴が知りたいという方もいるかもしれません。次に、笑福亭仁鶴の経歴について探ってみたいと思います。彼はどの様な経歴を歩んできたのでしょうか。
笑福亭仁鶴は、1962年4月に正式に六代目笑福亭松鶴へと入門しました。笑福亭仁鶴は、高校時代に初代桂春団治のSPレコードを聴いたことで、落語に興味を持つようになっています。笑福亭仁鶴が六代目笑福亭松鶴に入門したのは、六代目笑福亭松鶴に初代桂春団治の雰囲気があったことによるといいます。
なお六代目笑福亭松鶴は後に、直ぐに入門を許した弟子は笑福亭仁鶴が初めてであったと語っていました。
笑福亭仁鶴の初舞台は、1962年12月の『三越落語会』でした。そして、入門の翌年となる1963年に吉本興業に所属しています。当時少なかった吉本興業所属の落語家である、3代目林家染丸の”演芸場が増えることに対応するため落語家を増員したい"という意向で、誘われたのでした。
林家染丸は六代目笑福亭松鶴に話を持ちかけましたが、それは六代目笑福亭松鶴も林家染丸も笑福亭仁鶴が吉本興業向きであると感じたためでした。師匠・六代目笑福亭松鶴の勧めに、笑福亭仁鶴は吉本興業に入ることを同意したのです。
1960年代後半以降は落語ブームが到来しました。その頃の笑福亭仁鶴は、月亭可朝や現・六代目桂文枝とともに吉本興業の梅田や難波にある花月劇場チェーンに出演しています。それに加えて、テレビやラジオ、映画に出演しレコード(『どんなんかなァ/おばちゃんのブルース』など)も出すという忙しさでした。
笑福亭仁鶴も全国区の落語家となります。1969年から放送されていた公開バラエティ番組『ヤングおー!おー!』で、全国的なタレントとなったのです。当番組では、放送開始のすぐ後から「ごきげんよう! ごきげんよう!」とがなり立てました。
これは、裏番組であった『てなもんや一本槍』にチャンネルを変えさせないための作戦であった模様です。そのポジションを、笑福亭仁鶴が担ったものと考えられるでしょう。
1968年に六代目笑福亭松鶴が亡くなってからは、笑福亭仁鶴が一門をまとめる立場となりました。そして2005年2月1日には、吉本興業特別顧問に就任しています。笑福亭仁鶴は吉本興業の中でも特別な存在であるということでしょう。
笑福亭仁鶴には数々の名言が存在します。次に、笑福亭仁鶴の名言について見ていきたいと思います。彼はどういった名言を残しているのでしょうか。
司会を務めた『バラエティー生活笑百科』で発した「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせー」というフレーズが有名になりました。言葉を耳にした方もいるかもしれません。『バラエティー生活笑百科』の冒頭においても、この言葉が毎回流されてきました。
笑福亭仁鶴は、吉本興業所属ということもあり吉本興業の入社式に登場しました(時期は不明)。その際に彼は、新入社員に向けて「薬は身体を癒やしてくれます。笑いは心を癒やしてくれます。そして笑いには、決して副作用がありません」といった内容のことを話していたのだといいます。
吉本興業でも届ける”笑い”は、人のためになるということが分かるでしょう。
笑福亭仁鶴は、常日頃から弟子たちに対して「品性を保ち、下劣はするな」と言っていたという話があります。彼は、芸の道にも“品”が大事であると考えていたのでしょう。
笑福亭仁鶴というと『バラエティ生活笑百科』が思い浮かぶという方もいるかもしれません。ここで、笑福亭仁鶴が長年出演してきた『バラエティ生活笑百科』について迫ってみましょう。
『バラエティ生活笑百科』の司会は、笑福亭仁鶴が初代だと思っている方もいるかもしれません。しかし彼は2代目司会者であり、初代は西川きよしが務めていたのです。西川きよしの降板理由は、参議院選挙への出馬でした。
笑福亭仁鶴は、西川きよしの後継として1986年3月29日から2017年9月2日まで『バラエティー生活笑百科』の司会を務めました。31年半ほど、同番組の司会を続けてきたのです。なお笑福亭仁鶴の死去後は、彼は”名誉相談室長”として扱われています。
また笑福亭仁鶴の後継は、相談室CEOを務めていた桂南光が務めています。
笑福亭仁鶴の死去後となる2021年9月11日放送分では、笑福亭仁鶴を偲ぶ追悼放送が行われました。この回には、初期から共演してきた上沼恵美子らが出演しています。この際に上沼恵美子は「笑福亭仁鶴との共演は緊張した」と語っていました。
『バラエティー生活笑百科』は、2022年3月末で放送が終了することが決まりました。1985年4月からの歴史に幕を閉じることになったのです。番組終了の理由は、桂南光が司会をしながら笑福亭仁鶴の復帰を待っていたものの、叶わなかったためだといいます。
それほどに、『バラエティー生活笑百科』での笑福亭仁鶴の存在は大きかったということでしょう。
笑福亭仁鶴の私生活も気になるところかもしれませんが、彼は結婚をしているのでしょうか。続いては、笑福亭仁鶴の結婚や妻について見てみたいと思います。
笑福亭仁鶴は、1967年4月に結婚しています。彼は当時、30歳でした。では、笑福亭仁鶴が結婚した妻とはどういった女性なのでしょうか。次に、彼の妻についてご紹介します。
笑福亭仁鶴が結婚した相手は、吉本新喜劇の座員であった永隆子(えいたかこ)です。笑福亭仁鶴は、妻の話をする際には「隆子ヒメ」と呼んでいたといいます。とても妻のことを愛していたのでしょう。なお永隆子は、結婚後には名前が“岡本隆子”となっています。
2人の出会いについて見てみましょう。妻となる永隆子は、1965年になんば花月での新喜劇初舞台を踏みました。彼女は終幕後に挨拶回りをしていましたが、これまで1度しか顔を合わせたことのなかった笑福亭仁鶴より「キミはこの世界は向かないですよ。早く諦めてお嫁さんになったほうがよい」と言われたのです。
そして1967年に京都花月近くにある焼き肉店で、「キミのボーイフレンドに入れてほしい、結婚を前提として」と妻にプロポーズしたといいます。それに対し妻は「手帳の末席につけておきます」と返しましたが、笑福亭仁鶴はこれを“真っ先に”と勘違いし、自身の身上をどんどんと話していったのです。
芝居に未練があったこともあり、妻は当初結婚を渋っていた模様でした。そして彼女が両親に手紙を書いたところ、父親から「嫌いじゃないなら、考えなさい」と速達で返事が来たのです。そのことを知ると、笑福亭仁鶴は妻を新喜劇から退団させたい旨を、吉本興業に頼み直ぐに了承されたといいます。
その後に師匠・六代目笑福亭松鶴や妻の両親に挨拶を済ませました。そしてプロポーズから2週間で17坪という一軒家を購入し、新婚生活を開始させたのでした。
妻・隆子は、2017年6月2日に72歳で死去しました。その頃は、2人の金婚式という節目であったといいます。また、妻が亡くなってから2週間にわたり笑福亭仁鶴は喪に服しました。
妻は、1984年に化膿性脊椎炎という難病を患っていました。その際には、7時間という手術を終え1年で回復しています。化膿性脊椎炎とは脊柱に生じた感染症です。黄色ブドウ球菌という細菌を原因に脊椎が化膿して、化膿性病変が起こるケースが多いでしょう。
笑福亭仁鶴と妻の間には、子供はいるのでしょうか。次に、笑福亭仁鶴と妻の子供について迫ってみたいと思います。
笑福亭仁鶴と妻の間には、息子だけでなく子供はいませんでした。生前の笑福亭仁鶴は、女性問題でのスキャンダルもなかったでしょう。そのため、隠し子など他所に子供を作ったという話も聞かれません。
笑福亭仁鶴には子供はいませんでしたが、愛犬を飼っていて自分の子供のように可愛がっていたという話があります。ただし、愛犬の犬種など詳しいことは分かっていないでしょう。
笑福亭仁鶴には弟子たちがいましたが、笑福亭仁鶴はこの愛弟子たちのことも可愛がっていました。弟子たちが家の雑事をするにしても、笑福亭仁鶴の妻が指導をしていたといいます。笑福亭仁鶴夫妻は忙しい日々を送っていたのかもしれません。
落語家として活躍をしてきた笑福亭仁鶴ですが、彼の伝説はあるのでしょうか。最後に、笑福亭仁鶴の伝説についてご紹介します。
笑福亭仁鶴は上方落語の重鎮であり、“爆笑王”とも称されていました。吉本興業でも六代目桂文枝や西川きよしらと並ぶほどの別格であるといいます。吉本興業が松竹芸能よりも小さな事務所であった時代から、ここまで吉本興業が大きくなったのは笑福亭仁鶴の功績でもあるとも言われているでしょう。
笑福亭仁鶴は懐が深くてひょうきんな人だったという話も聞かれます。爆笑芸が面白く、”ライバルは桂枝雀であっただろう”という声もあるでしょう。
島田洋七は、笑福亭仁鶴の落語を見て学んだと話していました。また、『笑福亭仁鶴は新たなシステムを作り出したため売れた』とも話しています。例えば、一人でネタにおいて話す中に段オチや三段オチを取り入れていたのです。これは、当時は周囲がやっていなかった手法であった模様です。
島田洋七は、笑福亭仁鶴から2枚の色紙をもらっていました。その色紙は、今でもベッド横に並べているのだといいます。色紙の内容は、1枚には「雑談」「虚笑」と書かれており2枚目には「みてござる」と書かれていました。笑福亭仁鶴によると、「みてござる」というのは演芸でのお客のことなのです。
要するに、お客はお金を払って芸人のことをしっかり見ているものだから、芸人もお客を命がけで笑わせなさいという意味でした。
落語家の三代目・笑福亭仁鶴は2021年8月17日に骨髄異形成症候群で死去しました。『バラエティー生活笑百科』での「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせー」とのフレーズも有名になりましたが、84歳で先に旅立っていた愛妻や弟子の元に旅立ったのです。
落語界や吉本興業の発展に尽力した笑福亭仁鶴は、現在は天国で妻と共に静かに暮らしているのかもしれません。そして、天国から落語界の行く末を見守っていることも考えられるでしょう。
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