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西城秀樹の死因は?タバコ?水?遺伝?妻との闘病生活は?  

2018年5月、「昭和最高の男性アイドル」と言われた西城秀樹が亡くなりました。晩年は脳梗塞の後遺症に苦しみながらも、ひたすら病に立ち向かっていた西城秀樹。死因は何だったのか?タバコや水は死因と関係が?妻との闘病生活は?様々な情報を振り返ります。 

西城秀樹の死因とは?

2018年5月16日に亡くなった西城秀樹。2001年に脳梗塞で倒れて以来、2度の再発を繰り返した西城秀樹は、その重い後遺症に苦しめられていました。しかし晩年は、敢えて不自由な姿をテレビやコンサートでも隠さず、そのままの自分をさらけ出して、"生きる"ことにポジティブにこだわり続けました。

妻との闘病生活はどんなものだったのか?そして、西城秀樹の命を奪った病気と、直接の死因はなんだったのでしょうか?昭和のアイドル時代の情報も交え、西城秀樹の死因に迫ります。

西城秀樹はなぜ倒れた?死因との関係は?

2003年6月、公演に訪れた韓国にて脳梗塞を発症し倒れた西城秀樹。ここから西城秀樹の15年に渡る闘病生活が始まります。西城秀樹はなぜ脳梗塞を発症したのか?経緯を交えながら検証します。

脳梗塞を3回発症していた西城秀樹

妻である美紀さんより、韓国で倒れた際の脳梗塞は、西城秀樹にとって2回目の脳梗塞だったことが明らかにされました。2001年の秋、目眩や呂律に不安を感じた西城秀樹は診察の結果、軽度の脳梗塞と診断されていたのです。そしてその2年後、本格的な脳梗塞を発症し、わずかな言語障害が後遺症として残りました。

それからは再発防止のために、これまで以上に健康には気をつけ、徐々に体調も回復していた西城秀樹でしたが、2011年12月、致命的とも言える3度目の再発を発症し、右半身麻痺と言語障害のさらなる悪化が後遺症として残り、"歌手"としての西城秀樹は、事実上終わってしまったのです。

一回目の脳梗塞

一回目の脳梗塞について、少し掘り下げて見てみましょう。一回目に脳梗塞を起こした当時、西城さんは結婚2年目で48歳の頃でした。当時のことを振り返り、「強烈なだるさと眠さを感じた」と話しています。

一回目の脳梗塞を起こした時はディナーショーのために韓国に滞在していた時だったそうです。日本で脳梗塞を起こしても不安になるはずなのに、韓国で脳梗塞を起こした時はかなりの不安に襲われたことでしょう。

西城秀樹の脳梗塞発症の原因

西城秀樹の脳梗塞の遠因に、以前から取り上げられていたのが、西城秀樹が好きだった"タバコ"と"サウナ"です。西城秀樹は、1日3箱のタバコを吸うヘビースモーカーとして有名でした。また、サウナ愛好家としても知られており、体型維持のダイエット代わりとして、昔から頻繁にサウナに通っていたました。

特に40代に入ってからは、ジムで1時間ほど汗を流してから、さらに1時間サウナに入るということを日課としていたそうです。しかも西城秀樹のサウナの入り方は、いわゆる"ボクサー減量"方式。前後で水を飲むことは一切せず、身体から水を抜いて体重を落とすやり方です。

タバコとサウナが原因?

言うまでもなく、タバコは脳を含めた全ての血管を収縮させる副作用があり、また、身体的水分不足は、いわゆる"血液ドロドロ"状態を作り上げます。タバコと(水抜き)サウナという2つの要素が引き金となり、動脈硬化を起こしたことが、西城秀樹が脳梗塞をおこした原因であることに間違いないようです。

また、それに加え、飲酒の習慣も関係していたと考えられます。毎日ワインを飲酒していた習慣も脳梗塞につながったと考えられます。

西城秀樹はどのような闘病生活をおくっていたのか?

2011年に3度目の脳梗塞を発症し、深刻な後遺症と闘ってきた西城秀樹。彼はどのような闘病生活をおくっていたのでしょうか。西城秀樹の"病との闘い"を振り返ります。

西城秀樹の闘病生活を支えた妻・美紀さん

西城秀樹が妻である美紀さんと結婚したのは2001年6月。その約4ヶ月後に西城秀樹は1度目の脳梗塞を発症し、さらに2年後の再発、そして8年後の2011年には決定的ともなる3度目の発症を起こします。つまり美紀さんにとって、夫・西城秀樹との結婚生活は、常に脳梗塞とリハビリ生活との隣り合わせだった訳です。

最初の発症は症状も軽微だったため、それほど深刻にはならなかったかもしれませんが、2度目の再発の際は、既に美紀さんは、2歳と1歳という幼い子供の母親となっており、子供の世話と西城秀樹の介護、そして、再発防止のための西城秀樹の生活改善など、気の休まる間がない日々が長期間続いたそうです。

3度目の再発!それでも立ち上がった西城秀樹

美紀さんの献身と本人の努力により、体調は改善していたにも関わらず、2008年に3度目の再発をおこした西城秀樹。医師の診断では"運が悪かった"(厳冬であり、血管のある程度の収縮は避けられなかった)と、本人の責任ではないと慰められたそうですが、あまりのショックに、一時は真剣に自殺も考えたそうです。

そんな夫を励まし続けたのが妻・美紀さんです。しばらくは"鬱"に近い状態だったという西城秀樹ですが、美紀さんに勇気付けられ徐々に生きる力を取り戻し、「自分が生きている間に、家族に少しでも財産を残してやりたい」と、仕事復帰に向けての懸命のリハビリに励んだようです。

その後、不自由な身体を隠すことなく、少しでも仕事をすることを望んだそうです。不自由な身体になっても懸命に仕事をこなす西城さんの姿に勇気づけられた人は多かったのではないでしょうか。

西城秀樹の直接の死因は何だったのか?脳梗塞との因果関係は?

2018年5月16日、63歳という若さでこの世を去った西城秀樹。それまでに何度も倒れていたことから、脳梗塞が死因と思われましたが、後に発表で、脳梗塞が直接の死因ではないことが分かりました。西城秀樹死去の状況と、彼の死因について検証します。

西城秀樹死す!

2018年4月14日、栃木県で行われたイベントコンサートに出演した西城秀樹でしたが、それからわずか11日後の4月25日、自宅にて痙攣をおこし昏倒。そのまま緊急入院しましたが、妻・美紀さんは医師から"回復の見込みがない"と事実上の余命宣告を受けたそうです。

そして、5月16日、急性心不全のため横浜市の病院で亡くなった西城秀樹さん。63歳という若さでした。

西城秀樹の死因は急性心不全

西城秀樹の直接の死因として発表されたのは「急性心不全」でした。長年、苦しめられた脳梗塞と急性心不全に直接の因果関係はありません。ただ、2つの病気の共通の原因となっているのが「動脈硬化」です。

実は、西城秀樹は公表されている3回だけでなく、それ以外に計5度、軽度の脳梗塞発作を起こしており、その度に短期入院をしていたことが、妻・美紀さんより明かされました。

やはり、2度の大きな発作はいかに健康に気を配ろうとも、西城秀樹の身体を確実に蝕んでいたのでしょう。これまでの動脈硬化発作については、脳梗塞という形で顕在化していたのですが、おそらく心臓なども弱っていたため、急性心不全の発作を起こしたと思われます。

永遠の"アイドル"、西城秀樹を忘れない!

"昭和最高の男性アイドル"にして"日本初のロックボーカリスト"である西城秀樹。63歳という若さで亡くなった彼ですが、その死に際して、改めて西城秀樹のこれまでの偉業と功績が再評価されました。今後も、西城秀樹と言う輝かしい存在が忘れられることはないでしょう。

"昭和最高の男性アイドル"西城秀樹とは?

「新御三家」の一員にして最高の人気を誇っていた西城秀樹。それまで日本にいなかった、洋楽テイストを取り込んだその歌唱スタイルを、"日本初のロックボーカリスト"として評価する人も少なくありません。

また、従来の"振付け"とは違うステージ上でのボディアクションは、日本歌謡界に"新時代"を築き上げました。そんな西城秀樹の経歴と、彼の功績を振り返ります。

西城秀樹のプロフィール

名前:西城 秀樹(さいじょう ひでき)
本名:木本 龍雄(きもと たつお)
生年月日:1955年4月13(2018年5月16日没)
出身:広島県広島市
身長:181cm
血液型:AB型
最終学歴:明治大学付属中野高等学校定時制卒業
事務所:アースコーポレーション

広島市に生まれた西城秀樹は、父や兄の影響で幼い頃から洋楽に馴染み、少3でジェフ・ベックを聞いているような、ロック好きの"マセた"子供だったそうです。

西城秀樹の経歴

中学生の頃から洋楽のコピーバンドを始め、高校生の頃には米軍岩国基地のライブハウスに出入りし、当時、まだ日本ではなかなか聞くことが難しかったアメリカの最新ヒット曲を聞いたりすることが出来たことが、のちの音楽スタイル構築に役立ったそうです。

そして高校2年の時にスカウトされ芸能界入り。元々、日本の歌謡曲には興味がなかった西城秀樹でしたが、洋楽系出身の尾崎紀世彦の大ブレイクに、「今なら歌謡曲でも新しいことが出来るかも」と考え、歌手になることを決意し、1972年、「恋する季節」でデビューしました。

西城秀樹と"新御三家"

デビュー2枚目のシングル「恋の約束」でオリコン18位に入った西城秀樹は、その後はトントン拍子に人気も上がり、デビューから1年半後のシングル「ちぎれた愛」で初のオリコン1位を獲得。男性トップアイドルの地位を確立したのです。そんな西城秀樹の人気に、さらに拍車を掛けたのが「新御三家」の誕生です。

ほぼ同時期にデビューした、郷ひろみ・野口五郎と西城秀樹の3人を、当時のマスコミは「新御三家」("旧"御三家は、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦)と呼び始め、彼ら3人は"特別な存在"であると定義したことにより、新御三家は単なるアイドルの枠を超えた"スーパーアイドル"的存在として、ファンに認知されたのです。

"新御三家"メンバー

"女の子のように可愛い"と言われた郷ひろみ"と、"ベテラン歌手並みの歌唱力"を評価された野口五郎に対し、"情熱的なセクシーさ"を特徴に打ち出した西城秀樹は、新御三家の中でも最も人気を集める存在となりました。

歌謡曲に"ロック"の文法を用いた西城秀樹

幼い頃から洋楽テイストが身についていた西城秀樹。オリコン1位となった「ちぎれた愛」からは後に"絶唱型"と言われる、髪を振り乱しながらシャウトする歌い方を取り入れ、また、ハンドマイクではなくマイクスタンドを持ち、振り回しながら歌うスタイルは、当時は誰もやったことのない画期的なスタイルだったのです。

これまでの日本歌謡界は、従来の演歌やムード歌謡のスタイルか、カントリー曲を源流にしたフォークソングスタイルしか存在していなかったのですが、西城秀樹は「ロッド・スチュワート」をオマージュした歌唱スタイルを実践し、日本で初めて"ロックボーカリスト"を意識させる存在となりました。

日本ロック界のカリスマにも影響を与えた西城秀樹。

氷室京介は、デビュー直後、よく「西城秀樹みたいだね」と言われていたそうです。また、氷室京介自体も、西城秀樹からの影響を受けていたことを、のちに認めています。

逆に言えば、西城秀樹がテレビを通じ、いかに当時の少年少女たちに強烈な印象を残していたかが分かり、また、日本歌謡界にロックテイストを持ち込んだパイオニアであることを証明するものだと言えます。

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