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    浅田真央とタラソワが組んで表現した世界、どれほどの感動が??

    フィギュアスケートのコーチとして、多数のメダリストを育てたタラソワコーチは、浅田真央選手のコーチをしていたことでも知られています。しかしコーチではなくなった現在でも遠くロシアの地から浅田選手を応援していることでも知られています。この二人はどのような師弟関係だったのか興味がわきます。

    選手としての浅田真央とタラソワの関係は?

    ジュニアの時代から浅田選手をみていたタラソワコーチ

     「あの子がまだ小さい時から、競技大会のたびに会う機会があって、ジュニアの大会で彼女が勝利するのを見てきた。そう真央は天才児だったわ。氷上での動きは素晴らしく、スケーティングは非の打ち所がない。全てのステップ、全てのジャンプの難易度が高いのに、どの演技もいつもミスなしで演じていた。

    出典:http://think58.exblog.jp

    浅田選手の才能に早くから気がついていたタラソワさん。自分の要求するレベルを満たす選手であることも知っていたようです。

    浅田選手は、シニアのデビューの年に大活躍

    2005年の12月にブランプリファイナルで優勝。

    15歳でロシアのチャンピオン、スルツカヤを破りました。

    タラソワさんの予想どおりの成長です。

    2007年から、いよいよ浅田選手のコーチとなりました。

    お母さんと一緒に、モスクワまで行っていました。「練習の虫」と当時の浅田選手のことを表現しています。

    タラソワ時代の浅田真央選手の成績は?

    何と言っても、2010年のバンクーバーオリンピックです。

    ショートとフリーで計三回のトリプルアクセルを成功させました。しかし、他のジャンプで回転不足をとられました。

    それでも、どうどうの「銀メダル」でした。

    同じ年の世界選手権では、金メダルをとりました。

    オリンピックで金メダルをとったキム・ヨナ選手を破りました。

    タラソワコーチとは?

    タチアナ・アナトーリエヴナ・タラソワさんです。

    本拠地はロシアです。現在は、ゴージャスな毛皮のコートでおなじみです。バレエ的な動きを取り入れた芸術性の高いプログラムで知られています。

    選手として1964年冬季ユニバーシアードトリノ大会ペア優勝、1965年世界選手権7位、1966年欧州選手権4位入賞の実績を残すが、18歳のときに怪我で引退

    出典:http://ja.wikipedia.org

    1947年ロシア生まれ。19歳からフィギュアスケートのコーチ、振り付けを手がける。教え子が獲得した五輪金メダルは10個に上り、「金メダルメーカー」の異名を持つ

    出典:http://think58.exblog.jp

    ソチオリンピックの女子フィギュアの金メダリストであるソトニコワ選手を指導していた時期もあります。

    ソチオリンピックでも浅田選手のフリーの演技の振り付けを担当

    前回のオリンピックと同じように、ロシアの作曲家であるラフマニノフを選択しました。

    タラソワさんによると、自分と組んでいるロシアの振付師がいれば、ロシアの音楽に調和したステップを表現できるとの判断です。

    タラソワ選手が育てたのは、浅田真央選手だけではありません!

    主な教え子にイリヤ・クーリック(1998年長野五輪金メダル)、アレクセイ・ヤグディン(2002年ソルトレイク五輪金メダル)、荒川静香(2004年世界選手権金メダル)

    現在はロシアに住み、ロシアスケート連盟の顧問に就任している

    出典:http://ja.wikipedia.org

    シングルの選手だけでも、このように多数にのぼります。この他にもペアの選手も担当してきました。

    ヤグデン選手とタラソワコーチ

    2002年のソルトレイク五輪で金メダルをとりました。

    荒川静香選手とタラソワコーチ

    2004年の世界選手権で金メダルをとりました。

    他のコーチに変わった、2006年のトリノ五輪でも金メダルをとりました。

    タラソワコーチと浅田真央選手の別れ

    理由については、いくつかありそうです。

    ロシアとしては自国の優秀なコーチには、自国の選手を優先して欲しいという希望を持つでしょう。

    その他にも、コーチの家族の健康問題もあったようです。言葉の壁を感じたタラソワさんが、日本人のコーチが担当すべきだと考えたことも理由の1つです。

    コーチ選任は簡単ではありませんでした。

    本来は、バンクーバー五輪の後で、他のコーチに任せる予定でした。しかし、コーチはなかなか決まりませでした。

    そこで、浅田選手のお母さんが、タラソワさんへコーチへの就任を依頼する手紙をだしました。

    この手紙に感動したタラソワさんは、総監督と振付を担当することを承諾しました。

    そして、記録ではなく記憶に残るソチの演技へ

    その後、日本人の佐藤コーチが就任して、ソチオリンピックまで担当しました。

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