【追悼】名優・名司会者愛川欽也の病気をおしての活躍とその歩み

愛川欽也追悼特集。病気をおして活躍してた番組やその歩みを紹介していきたいと思います。あの「アド街ック天国」の1000回記念など愛川欽也は病気療養中にもかかわらず精力的に活動していました。愛川欽也の病気や病気と向き合った想いも含めて一挙紹介します!

追悼!愛川欽也は病気にもかかわらず活動をこなしていた!

愛川欽也の歩み

それでは80年の天寿を全うした愛川欽也の歩みを簡単に振り返っておきましょう!

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本名:井川 敏明(いがわ としあき)
愛称:キンキン
出身:東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)
俳優座、劇団三期会を経て、最終所属先は愛川企画室
身長168cm、体重72.5kg
妻はタレントのうつみ宮土理

「おまっとさんでした」という言葉は、ドラマ以外の出演番組の冒頭で出る名ゼリフ。
「お待たせいたしました」という意味だそうです。

そして、愛川欽也の主な活躍は?

1971年から深夜番組『パックインミュージック』でパーソナリティとなり、若者を中心に人気が広まり、「キンキン」の愛称が一般に定着しました。

1974年から1986年3月まで長年にわたり深夜番組『11PM』の司会を大橋巨泉とともに務め、司会者としての人気と地位を確固たるものにしていきました。

1975年放送開始の昼のバラエティ番組『シャボン玉こんにちは』で愛川欽也さんは司会者を務め、そこでうつみ宮土理さんと出会います。
1978年には、前妻と離婚し、その翌日にうつみと再婚しましたが、二人の間には実子はいませんでした。

劇団キンキン塾

2000年10月、愛川の下に集まった後輩の俳優たちと共に「劇団キンキン塾」を結成。
2001年11月の旗揚げ公演依頼、年1回のペースで本公演を上演しています。
劇団をベースに舞台公演・自主映画製作を行い、プロデュース・脚本・演出・音楽を全て自ら手がけるマルチクリエイターとしても活動しています。

小劇場「キンケロ・シアター」

2009年6月、私財を投じて小劇場「キンケロ・シアター」を東京都目黒区青葉台にオープン。
劇団キンキン塾の活動拠点であり、自主製作の映画なども上映されています。

再婚した妻・うつみ宮土理(ケロンパ)

愛川欽也の妻・うつみ宮土理
出身:東京都世田谷区
1965年に実践女子大学文学部英文学科を首席で卒業。
朝日新聞社「ディス・イズ・ジャパン」編集部勤務を経て、タレントへ転身。
1966年、日本テレビ系列の子供向け番組『ロンパールーム』の2代目お姉さんとしてデビュー。

2007年、夫の愛川が当時28歳だった女性との不倫を報じられた時には、「カッコいいじゃん」と一蹴し、夫である愛川欽也さんを擁護しました。

韓流ドラマに魅せられ、「もっと深く理解したい」と2007年4月から約3か月間、大韓民国の慶熙大学校語学学校へ語学留学しました。
学校の授業以外にも現地の家庭教師をつけ、日々勉強に勤しんだそうです。
勉強家でもあり、行動的な方ですね。

名優・愛川欽也が病気になる前に30年近く出演し続けたドラマ

名優の足跡として外せない・テレビ朝日系列・「十津川警部シリーズ」

初代の「亀さん」役として愛川欽也が登場。本来の主演の十津川警部役が三橋達也から高橋英樹に変わるまではまさに主演として活躍。

1981年から30年間57回分を担当し、ある意味「ライフワーク」となっていた作品である。2012年に引退。

また、原作者の西村が当時、愛川が亀井のイメージに一番近いと語った事がある。

出典:https://ja.wikipedia.org

というくらいはまり役だったそうです。愛川欽也。

ついでに動画もご覧いただきましょう!

これをきいて「思い出した!」「そういえば」という人もいるかも知れません。ちなみにこのシリーズは鉄道ファンは必見です!

次に紹介!愛川欽也が病気の中担当した「アド街」!

そういえば…愛川欽也の病気は何だったのか?

というわけで、愛川欽也の病気について改めて。

愛川欽也さんは、肺癌でした。
体調の不安を訴え、検査したところ、肺癌であることが判明したそうです。
ご本人の希望で、入院はせず在宅での懸命な治療を続けていましたが、ご本人の強い希望もあり、病状は伏せたままの治療だったそうです。

愛川さんは、根っからの仕事人間だったそうで、肺癌を発症した以降も仕事に情熱を燃やし、息を引き取る直前まで「仕事に行こう」と寝言のように言っていたそうです。

愛川欽也さんは病気でも在宅の治療をしながら、仕事を続けていました。
これから、その活動を紹介します!

そして「アド街」を病気の中出演し続けた愛川欽也

アド街1000回連続司会で一旦卒業した愛川欽也。病気の治療に専念したが、返り咲きはなりませんでした。

愛川欽也が司会をしていた『アド街ック天国』って?

毎週さまざまな「街」にスポットを当てて「アド街ック高感度30人委員会」選定の、その街に関する名所・建造物・店舗・名物・特徴・風土・自然・人物などを30位からランキング形式で紹介するコーナーを軸に、その町の魅力を多方面から伝える番組です。

『アド街ック』とは、「ad(advertising:宣伝、広告の意)」と「街」と「ドラマチック」をかけ合わせた造語、かばん語だそうです。

番組スタート当初の肩書は宣伝部長でしたが、その後宣伝本部長に昇格しました。

2014年6月25日に80歳の誕生日を迎え愛川欽也さんが情報テレビ番組で最高齢の現役司会者としてギネス世界記録に認定されました。
ご自身にとっても寝耳に水だったそうです。
愛川さんは感謝を示しつつ今のところ丈夫なので、当分はこの記録を誰も破れないと思うとコメントしました。
病気が発覚したのは、これからわずか半年後のことでした。

愛川欽也のこの仕事への意気込み

愛川欽也さんは病気中も、この番組への意気込みは変わらなかったそうです。

『出没!アド街ック天国』のスタッフには「街を作るのは、建物じゃなく人なんだ」と力説していたそうです。
愛川さんの随筆の中でも、街に対する想いや愛着が書かれており、病気で降板する最後の出演時にも同様のことをおっしゃっていました。

愛川欽也が病気降板する時のOP

端から見る限りでは、病気だとあまりわからないのですが、裏話では体調の悪さが収録時には露呈していたとかいなかったとか?

愛川欽也が選択した病気の治療法

がんは脊椎にまで転移していた

体調不良が続き都内の病院で診察を受けた時点で既ににがんは末期まで進行しており、
手術をすれば長期入院、放射線治療も週5~6日の通院を最低でも2か月は続けなければいけない。
そんな選択を迫られていたようです。

「絶対に仕事に穴をあけたくない」という愛川さんが選択したのが、第三の選択肢となる『重粒子線』という治療法でした。

放射線治療は、体内の奥に入っていくほど影響力が下がってしまうのに対し、重粒子線治療は、その影響力のピークを体内に設定することができ、がん病巣に狙いを定めて効果的に照射できるそうです。

がん病巣の形や位置に合わせて集中的に照射することができるそうで、
一人ひとりの状況に合わせた照射を行うことで、脊髄などの重要な器官への影響を抑えて治療ができる方法のようです。

この治療は、極めて高度な設備を必要とするため、日本国内ではわずか4つの病院でしか受けられず、保険適用外のため、治療費は300万円以上にもなるそうです。
愛川さんは、仕事をしながら、千葉の病院まで通い、この治療法に賭けていたようです。

残念ながら、治療の効果は芳しくなく、既にがんは脊椎まで転移してしまっていたようです。
アド街1000回目の収録日は、高熱でまともに歩くこともできず、気力だけで収録したそうです。
仕事に穴をあけないために、本当に必死で戦っていたんですね。

愛川欽也は認知症も発症?

引退した理由が、実は認知症だったのではないかという噂が流れていました。
アド街の最後の放送でゲストの方々とのトークがあまり噛み合っておらず、関係者によると本当はもっとトークがめちゃくちゃで多くの部分がカットされていたということから出た噂のようです。

しかし、最後のアド街収録日の愛川さんの病気の状況から考えると、高熱のせいで、トークも噛み合わないような状況だったのではないでしょうか。
そんな体調の中、それでも最後まで仕事をする意気込み、精神力、本当に素晴らしいと思います。

病気の愛川欽也を支えたもう一人の女性の影

いつも仲睦まじくお二人一緒のイメージが強い
うつみ宮土理さん、愛川欽也さんご夫妻ですが、
うつみ宮土理さんが韓国へ留学していた頃から愛人関係になっていた女性がいたようです。

任漢香(にん かんか)さんと愛人関係になったと言われており、愛川欽也さんはこの女性に惚れこみ亡くなる80歳まで関係は続いていたそうです。

2007年に写真週刊誌に不倫密会現場をスクープされ、その9カ月後には愛川さんが任漢香さんに東京都内の高級住宅地にある3階建ての一戸建て住宅を贈ったと言われています。

愛川欽也さんは任さんを「20年に一人の天才女優」と評しており、愛川さんが監督を務める映画などには、彼女が必ず出演していました。

うつみ宮土理さんも、愛人である彼女の存在はご存知で公認だったようですが、
最後は、もちろんうつみ宮土理さんが看取り、愛人はシャットアウト。
愛人である任さんは、一切詳細を知らされず、愛川さんの死後になって事務所から聞かされたそうです。

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うつみ宮土理さんは、愛川さんの生前は女性問題などで何度も悩まされたようで、本当にご苦労があったのだろうと思います。
でも、愛川さんとしては、最後も二人の女性から愛され慕われたのですから、幸せな人生だったのでしょうね。
そして、愛人を作っても、最後まで愛してくれたうつみ宮土理さんに、やはり感謝していると思います。

うつみ宮土理、愛川欽也の病気報道に一蹴

「どうして病気にしたがるの」

うつみ宮土理さんは、夫の愛川欽也が『出没!アド街ック天国』のMCを降板した理由について、フジテレビ系『ノンストップ!』(毎週月~金 前9:50)にVTR出演し、重病説を否定しました。

周囲を心配させないように「風邪」と押し通し、亡くなる直前まで、病気であることを否定し続けました。

愛川欽也さんが亡くなったことが発表されたのは、2日後でした。
発表が遅れたのは、妻であるうつみ宮土理が、取り乱してしまったためと言われています。
愛する人が旅立ってしまったという事実を受け止めるには、必要な時間だったのでしょう。

これからも、ご自身の人生を楽しんで、お元気で幸せに過ごしていって欲しいものです。

賛否両論!?愛川欽也の病気中のリベラル系文化人としての活動

愛川欽也の秒の最中の活動について、外せないテーマがもう一つあります。それが「反戦」「平和主義」です。賛否両論はあると思いますが、同氏にとっては切り離せないテーマだと思いますので、あえてそのまま掲載いたします。

リベラル系文化人として「パックインジャーナル」を

案外知られていませんが、愛川欽也とリベラル系思想とは切っても切り離せない関係にあったようです。これは、最近はWEB番組になっていましたが、この番組は病気療養中もつづけられ、同氏は政権批判を繰り返していたようです。

東京都墨田区が主催する「平和メッセージ展」に21年間も出品してきたそうです。
「反戦は 憲法を守ることです」という言葉も届けてました。
この言葉からもわかるように、愛川さんは積極的に憲法改正に反対を唱えてきたのです。

リベラル系文化人としての活動もかなり長かったようで、パックインジャーナルも含めてライフワークとしていたようです。
だからこそ病気中も継続していたと思われます。

病気でも続ける!?根底にあるのは「戦争」体験

社民党前党首や憲法学者小林節も出演していたようですね…

愛川欽也さんの平和を願う気持ちには、自身が経験した戦争体験が根底にありました。
戦争を通じて得た思想をテレビ番組内でも打ち出しています。
その最たるものが、1999年から司会をつづけてきた番組『愛川欽也 パックインジャーナル』です。
戦時中、疎開を余儀なくされたり、いじめの被害者になったりという経験もあるようです。

「我々は戦争をしない国なんだ、ということでほかの国から尊敬されれば、それが国を愛することだと、ぼくは思うんですよ」と語っており、他の国から尊敬されることが国としての誇りをもつ(結果として国を愛する)ということだと考えていたようです。
病気中でもこの姿勢は変わりませんでした。

これで評価は下がる?上がる?愛川欽也の病気療養中の活動!

病気中も精力的に活動した愛川欽也。特に、最後の「平和主義者」としての活動は賛否が分かれると思います。

これらも含めて、病気中の活動および愛川欽也はどんな人物だったのか考える材料になればと思います。

病気中もやや過激に発信していた「平和主義」ですが、一体われわれは何に教訓を求めそれを保守すべきなのか?という問を投げかけているように思いました。

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