2015/10/13
NANAT197
明石家さんま(あかしやさんま)
本名:杉本高文
ニックネーム:
さんまさん、さんまちゃん、さんちゃん
生年月日:1955年7月1日(59歳)
出身地:奈良県奈良市
血液型:B型
身長:172cm
元々は落語家を志して2代目笑福亭松之助門下となったが、師匠の推薦でお笑いタレントに転向し現在も芸能界の第一線で活躍を続けている。
1975年、『11PM』(日本テレビ系)でテレビデビューを果たす。1970年代後半から活躍を続けている国民的お笑いスターの1人。タモリ、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称される。
1979年出版、実在の宮内省大膳職司厨長(料理長)を務めた秋山徳蔵をモデルにした杉森久英による小説が、1980年堺正章主演でTVドラマ化され、明石家さんまさんも出演していた。
『天皇の料理番』(てんのうのりょうりばん)は、1979年に出版された、杉森久英による小説。
1980年10月19日から1981年3月22日まで毎週日曜日20:00 - 20:55にTBS系で放送された。全19話。主演は堺正章。
目標が見出せなかった主人公篤蔵(堺正章)は、これまでに見たこともなかったカツレツの味に感動し、西洋料理の料理人になるために親の反対を押し切って上京する。
東京に着いた篤蔵は、見習い仲間の新太郎(鹿賀丈史)や辰吉(明石家さんま)らと共に料理の極意を学び、苦労を味わいながらも天皇の料理番に登りつめて行く様を描く。
1979年、(さんまさんは)堺正章主演ドラマ『天皇の料理番』でドラマ初レギュラーを獲得し、全国的な知名度を得る第一歩となり、当時担当していたラジオ番組MBSヤングタウンにて楽屋話を披露していた。
かつて明石家さんまが出演していたドラマ『天皇の料理番』がリメイクされることについて、(2015年3月)14日に放送されたMBSラジオ『ヤングタウン土曜日』の中で、当時の思い出を尋ねられると、さんまさんは“地獄のスケジュール”を語った。
多忙を極めていた当時、週に14本のレギュラーと1日2公演の舞台が20日間続いていたというが、そこにドラマ撮影が入ったから大変である。
さんまは「もう、とんでもない。3日くらい寝てなかったんちゃうかな」と振り返った。
1980年放送「天皇の料理番」主演:堺正章さんの仲間役のさんまさんはこれを基に全国区でも知名度を上げ役者としても認められたそうです。後にさんまさんは同じ脚本家の鎌田敏夫さんが手がけた、「男女7人夏物語」の出演し、大竹しのぶさんと出会うことになる。
佐藤健(さとうたける)
本名:佐藤 健
生年月日:1989年3月21日(26歳)
出生地:さいたま市岩槻区
身長:170 cm
血液型:A型
高校生の時に原宿でスカウトされて芸能界入り。2006年、テレビドラマ『プリンセス・プリンセスD』の準主役・河野亨役で俳優デビュー。2010年にはさんまさん司会番組に登場している。
2007年『仮面ライダー電王』
2010年NHK大河ドラマ『龍馬伝』岡田以蔵役
2012年舞台 『ロミオ&ジュリエット』ロミオ役
主演映画『るろうに剣心』公開
柄本佑(えもとたすく)
生年月日:1986年12月16日
出生地:東京都
身長:182 cm
血液型:B型
マネージャーの母の勧めで『美しい夏キリシマ』のオーディションに応募し、役者デビュー。
父は俳優・柄本明。母は女優・角替和枝。弟は俳優・柄本時生。映画関係に勤める姉がいる。妻は女優の安藤サクラと、豪華俳優一家!
TVドラマ・CM・舞台・映画など多数出演。若手実力派俳優。
明石家さんまさんが演じた山上辰吉役に、若手実力派俳優柄本祐が挑んでいます。当時の堺正章さんとさんまさんのような、アドリブだらけの友情シーンはなさそうですが、
新たなさんまさんの役柄を演じる柄本祐さんの演技も見所です!
堺正章さんは役作りのため、ホテルオークラ東京で約3ヶ月間料理の修業をしたそう。これが今の料理の巨匠に繋がった?さんまさんも演技のために料理を勉強された?のでしょうね。
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秋山徳蔵(あきやまとくぞう)
生誕:1888年8月30日
出身地:福井県越前市
没:1974年7月14日(満85歳)
宮中の午餐・晩餐を通じて日本における「西洋料理」のスタイルを確立したといわれる。「日本の食を変えた人物」と評される。明治 - 昭和時代の日本の料理人。大正期から昭和期にかけて宮内庁で主厨長を務めた。フランス料理アカデミー名誉会員。
豪華絢爛の食卓を思い浮かべるのが普通かと思いますが、さんまや鰯。民間人よりも質素といった印象の天皇陛下のお食事には驚きです。
予算がない分、慎ましい食卓だからこそ、料理番は手間をかけられているそうです。また国民の税金で召し上がられていることに対して、御配慮をいただいていると深く感じられますね。
タイやヒラメといった高価な魚ではなく、鰯や鯵、さば、さんまといった大衆魚ばかりです。昭和天皇(陛下)もまたイワシやアジが好物だったよう。万が一があってはいけないと、昭和天皇(陛下)は生涯一度もフグをお口にされたことがなかったのです。
余った食材も捨てることはもちろんしません。他の料理に使えるものは使い回しますし、料理番の賄い食に使われたりして完全に使い切ります。(一物全体(いちぶつぜんたい))
この秋山徳蔵さんの功績がなければ、今の平和な日本も洋食もなかったかも知れません。さんまさんの番組を笑って見ていられるのも秋山徳蔵さんのお陰なのかも?!
海外に向けた”おもてなし”の日本の心もここから始まった?!
今立ち向かおうとして心が折れそうな人や、一生懸命やったってどうせ・・・なんて思っている方に是非!秋山徳蔵さんの半生を知っていただきたい!さんまさんのようないつも明るく前向きな自分になれるかも?!
大正天皇陛下即位の式典に併せて、26歳の若さで宮中の料理長に就任(昭和天皇陛下13歳)。日本人の手で西洋風の晩餐会を成功に導き、5年後日本は国際連盟の常任理事国入りに一役買ったと言われています。
天皇陛下と料理番が献立について直接話すことはありません。残された料理を見て御体調やお好みを推し図り、料理を通じて天皇陛下をお守りするそれが、さんまさんも出演した「天皇の料理番」の真の姿。
乗馬・花見・鵜飼い・カモ猟など、様々な企画を考えお料理でマッカーサー家族や、GHQのあらゆる幹部までをもてなします。
スイカ、伊勢エビ、鴨、トマト、レタス…秋山さんは、信じられないほどの食材を手を尽くして集め、手の込んだ料理にして贈っていたのです。あの東京大空襲の焼け野原で。
マッカーサー婦人に禿げた頭にキスされたり、ハグ。そして屈辱的だったのは、その頭に口紅を塗られ日の丸を描かれた。しかし、道化を演じこらえた。後に感謝状が多数届くこととなる。
天皇陛下を思い、料理を作り続ける秋山さんの思いが伝わり、GHQの人々との間には、いつしか友情にも似た感情が生まれていたそうです。
マッカーサーは、アメリカへ「天皇の戦争責任を追求できる証拠はない」と報告…天皇陛下は国民の象徴として新たな一歩を踏み出すこととなった。
40半ばを過ぎると昭和天皇も味の好みが変わり、和食を好まれるように。そこで、就業後にてんぷらや寿司などを修行しにお店に通い、寝ているときすら練習して天皇陛下の体調をお守りされたそう。
「陛下のお食事を御作りする事に、真心を捧げつくしている事、これだけは世の中の誰にもひけをとるものではない。きれいに、丁寧に、真心こめて、これにつきるのである」(秋山徳蔵『味』より)
昭和47(1972)年 秋山さん84歳、料理を介さずに天皇からお言葉をいただくのは宮中に努めて58年、初めて。秋山さんは必死に涙をこらえ退出すると声を上げ、男泣きに泣いたといいます。
意外にさんまさんと秋山徳蔵さんの性格って似てたりするのかも?と思うほど、さんまさんも秋山さんも頑張り屋さんだったんですね。今や巨匠といわれる堺正章さんに、師匠といわれる明石家さんまさん!
どんな仕事でも時代でも、開拓者たちは皆周囲の求めに合わせて自分を変えて行ける柔軟さと、優しく強い心を持ち、そして何よりも周囲から愛されているのだと思いました。
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